晴空便り

エッセイスト・生け花アーティスト・末富晶の晴れた空へつながるブログ

一番最初の記憶

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<晴空便り生け花 ”ガーベラ・雪柳・レモンリーフ” 末富晶>

 

 

この世に生まれてからの、

思い出せるかぎりの、いちばん古い記憶について、

今朝、考えていました。

 

私にとってのそれは、

たぶん2才くらいか、もしかしたらそれよりもう少し前の小さな頃。

 

朝、祖母におんぶ紐で背負われて、

家の前から、仕事に出かける祖父と父の背中を見送ったこと。

 

道のとちゅうで二人が振り返り、こちらに笑顔で手を振ったこと。

 

 

そういう記憶があるのですが。

 

それは本当にあったこと?

夢だった可能性は?

 

と問われれば、どうだろう…と急に自信がなくなるほどに、

前後の記憶のぷっつり途絶えた、そこだけの曖昧なワンシーンで。

 

 

けれども多くの人にとって「一番最初の記憶」とは、

そうしたものなのかもしれない、とも思えます。

 

「一番最初」どころか、記憶と呼ばれるもののほぼ全てにおいて、

 

それが夢だったのか、それとも本当にあったことなのか、

 

年月を多く重ねるごとに、だんだんと判断が難しくなってくる。

 

 

自分が持っている、「人生の中の大事なワンシーン」で、もう何度となく脳内再生した映像は多々あるけれど。

 

そのシーンを共有した友人と会えば、

「あの時ああだったよね」

と懐かしむこともできるけれど。

 

その際に再生されている映像そのものや、色や形や匂いのこまごまに至っては、

つきつめて照らし合わずともきっと、友人と私とで全く同じということはあり得ないだろうことは明らかだし、

 

ましてや一人きりの場所であったこと。

もうこの世のものではない人との思い出。

言葉を持たない動植物たちとの分かち合いなどは、後からそれを「本当にあったよね」と確認し合うすべももはやなく、

そしたらそれはもう、その自分一人きりで現実だと思っている過去は、夜に見た夢と一体どこが違うのだろう、と思えるほどに掴みどころのないものだと感じます。

 

その繊細で、曖昧で、「現実」と呼ばれるものから見れば恐ろしいほどに不安定なものこそが、

本当はいつもの暮らしの中で、つねに私によりそって、記憶を積み重ねてくれている。

 

「一番最初の記憶」について思い出してみたり、

その記憶が生まれた当時の自分の感覚を思い出そうとしてみたりすることは、

いつもの日常に隠れて見えなくなっている、現実のもう一つの側面、

「起きてみている夢」のような世界の存在を知らせてくれる気がします。

 

 

身近なあの方この方の、「一番最初の記憶」について

聞いてみれたら、きっと面白いかもしれない。

 

 

そんなことを思った今日でした。

 

 

 春のはじまりの季節。

 

だんだんと日差しも暖かくなってきましたね。

 

 

みなさまどうぞそれぞれに、

素敵な日々をお過ごしください。

 

 

 

  末富晶 -Sho SUETOMI-

 

 


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