晴空便り

エッセイスト・生け花アーティスト・末富晶の晴れた空へつながるブログ

晴空便りの生け花~京都・安楽寺「くさの地蔵縁日」にて

 

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冬の終わりの、晴空便り。

 

立春

 

季節はめぐりめぐる。

 

 

昨日は久しぶりに、生け花体験の場を開かせていただきました。

 

それも、京都・安楽寺さんという素晴らしい場所の書院で。

 

 

毎月2日に安楽寺さんで開かれている「くさの地蔵縁日」内で、

お花を生けさせていただいて、

おとずれた方にも、お花を生けていただいて。

 

言葉では言い表せないほど、貴重な時間を共にして。

 

自分のやっていきたいことの、

これまでまだまだぼんやりしていた部分が、また一つ明確になったような。

 

そんな一日でした。

 

不登校でも大丈夫」の出版からこちら、

やろうやろうとしてもなぜか動きがとりにくかった「生け花」をお伝えするという私のもう一つの仕事は、

きっと、このことが明らかにならなければ無理だったのだと。

 

そう思える、それはそれは重要な気づきでした。

 

 

まだまだ、それを言葉にするところまでには至りませんが。

 

明らかに、多くの人のためになるだろう、と思える内容で。

 

それははっきりと、私にこれをする価値があると思わせてくれるもので。

 

とても大きな、勇気をいただいた気持ちです。

 

 

「誰かのために」

 

という言い方は、いつもはあまり好きではなくて。

 

そうではなく、自分のためにやっていることが結果的に誰かの役にたっていた…くらいのニュアンスの方が好ましいと思っており、実際、それは今も変わらないのですが。

 

一見矛盾しているようだけれど、

 

 

「多くの人のためになる」と思えることが、自分の動く力となってくれる、そのこともまた事実で。

 

「誰の役にもたちはしない」とか

「かえって世界を悪くしている」と思えることで動いていれば、

どんどん自分の命が削られる感覚がする気がします。

 

だからまわりくどい言い方だけれど、

「他の人のためになる」と思えることは、

結果的に「自分のため」になっている。

 

 

今書いていて思ったのですが、

 

「誰かのため」の「誰か」の中に、自分はすでに、当然のように入っている。

そんな感覚なのかもしれません。

 

「この世に生きているものたち」

 

という大きすぎる「いのち」の単位でくくれば、当然そこには、「目の前の人」も「私」も、例外なく含まれているといえるのでしょう。

 

 

 

 

一か月ぶりの、晴空便りですが、

この一か月もまた、素晴らしい出会いに満ちた日々でした。

 

 

新しい春を迎え、

ここからまた、新たに芽吹いてくるものたちを

心待ちに。

 

 

 

みなさまもどうぞ、よい日々をお過ごしください。

 

 

  末富晶  -Sho SUETOMI-

 

 

 

 

著書「不登校でも大丈夫」(岩波ジュニア新書)発売中です

www.iwanami.co.jp

 

 

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