晴空便り

造形詩家・末富晶の晴れた空へつながるブログ

”過程”を生きる

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子どもの頃から十代にかけて。

私は「すべてを知り尽くした老人」に憧れ、そうなろうとしていました。

 

着飾らず、美食せず、畑を耕し、古い着物を作務衣にしたものを着て。

 

犬か猫を一匹そばに置き、日がな一日、本を読んだり植物の世話をしたり、ゆったりとした時を過ごす。

 

本当の贅沢が満ちた、本物の暮らし。

 

 

自分の中に作り上げたそんなイメージが確かにあり、そうなろうとしていたものだから。

 

髪も顔も洗いっぱなし。

 

畳の上に座ればその姿から「座敷わらし」と呼ばれ、

ごはんを食べればその慎ましい量から「小鳥」と呼ばれ、

毎日下駄を履いていたおかげで足の指は自由に伸びて長く、

それは今でも気に入っているけれど、

つま先のとがったハイヒールなどとても履けない形となりました。

 

「本物」を知っている人は皆そんな姿になるようなイメージがあったから。

 

最初から、最短で、そこに行きたかったから。

 

人生の後半を待つことなく、かなり初期の段階でそういった姿を模していたのだと思います。

 

けれど、模したものが本物になるには、

おたまじゃくしがそのままカエルになるようにはいかない。

 

 

人の形を模した人形が、どうにか人間になろうと思っても、

 きっと何百年経っても、その夢は夢のままであるのと同じように。

 

心と魂の不思議を解明して、それをどうにか自分のものにするまでは。

 

ずっとずっと、長い旅の先に行き着く場所を見つけるまでは。

 

 

大人になってやっと、私はそういうことなのだと思った。

 

髪を編み、化粧を覚え、携帯も持って。

 

そうしたことの一つ一つが、馬鹿にできたものではないと知って。

 

みんなが通る、泣いたり笑ったりの心乱される世界を、楽しめるようになった。

 

 

ボロを着るには、まだ早いのだ。

 

 

その前に、やること、味わうことが、たくさんたくさん、この世界には満ちている。

 

 

そして世界は、おそらく ”結果” ではなくその "過程” がつくる。

  

問いかけのぶんだけ、こたえてくれるもの。

 

けれど自分を「完成されたもの」として扱ってしまえばそこで、世界への問いかけは途切れてしまう。

こんなに不幸なことは、他にないくらいなのに、幼い私はそのことを知らなかった。

 

 

あらゆるものを避けて賢人ぶるのは、

あらゆるものに飛び込んで愚民となるよりも愚かなことなのだと。

 

 

 そう知れて、良かったと思っているのです。

 

 

今年もあと数日。

時々過去を振り返りながら…そんな風に、まいりましょう。

 

 

 

   末富晶

 

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