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晴空便り

造形詩家・末富晶の晴れた空へつながるブログ

力を与えるもの・奪うもの

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先週、お花がうまく生けられなかったことをきっかけに。

色々と自分の中で考えたり、分かったり、思い出したりすることがあったのですが。

 

結局世の中の物はなんであれ、自分にとって力を与えてくれるものと、逆に力が奪われてしまうものとがあると思うのです。

 

 

今日バスに乗りながら、ずっと昔、化学肥料や農薬を使わずに野菜を育てている農家のおじさんと交わした会話を思い出していました。

 

当時十代後半くらいだった私は純粋に、より自然に近い野菜はそうでないものよりも美味しいと感じられるはずだし、そうであれば多くの人は化学調味料や薬のかかった食べ物よりも自然に近いものを選びたいと思うだろうと考えていました。

 食べ比べればほとんどの人がそのおじさんの作った作物を「すごく美味しい」と言うだろうと。

 

けれど、私の考えに対するおじさんのこたえは「NO」でした。

 

自然に近いものを、美味しいと感じるとは限らない。

なぜなら人間はすでに、不自然な生活の中で暮らしている。

人は本当に良いものよりも、自分の知っているものの方を選ぶ。

 たとえどんなに不自然な食べ物でも、食べ続けていればそれがその人にとっての親しみのある味、つまり「美味しい味」なのだ。

 

そんな風に、説明してくれたのです。

 

そのこたえは、当時の私にとってショッキングなものでした。

 良いものを、良いと感じる。

その当たり前と思えるセンサーが、すでに機能していない場合もあるのだと。

 

この世の中に良い悪いはないとか、自分が好きだと思えるものを選んでいけばいいとか、そういう話も、本当だろうとは思うのですが。

 

でもその「好き」「美味しい」が、基本的になんだか間違っているというか。

自分にとっての「本当に良いもの」ではない場合があるのだと思うのです。

 

食べ物に限らず、見るもの聞くもの出会う人々も同じことですが。

 

それと相対するとき、それを受け入れた時、気を付けて観察してみると必ず、自分の中の力が満ちているか、もしくは逆に奪われているかが分かります。

 

力を与えてもらったときの、あの身体が軽くて、満ちている感覚。

力が奪われたときの、あの身体が重くて、淀んでいる感覚。

 

その状態に至るまでにはひょっとして、自分が思うよりもずっと、何気なく選んだ外的要因の影響は大きいのかもしれません。

 

私は最近、新しいことにチャレンジしていく過程で、今までに取り入れたことのないものも多く取り入れた自覚があり・・・そしてどうやら、そのうちのいくつかは私にとっては合わないものたちであったようです。

 

お花が、合わないものを取り入れたかなり初期の段階で、その些細なズレを認識し、「力が奪われているよ」と教えてくれたような気がしています。

 

もちろん全然間違っていて、「ただの疲れだった」説の方が正しい可能性も大ですが。

 

 

あまり神経質に気を付けすぎるのもまた違うと思いますが。

 

自分にとって良いものと悪いものがあり、

その選択は、思う以上に重要だと。

 

そんなメモを、改めて心のどこかに張っておこうと思います。

 

 

   末富晶

 

<晴空便りホームページ>

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