読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

晴空便り

造形詩家・末富晶の晴れた空へつながるブログ

一つの井戸を掘るように

f:id:seikuudayori:20170128093937j:plain

 

二月は私の誕生月でもあるからか、やっぱり何か特別な感じがします。

 

一月一日はそれはそれで皆で新年を祝うけれど、

私にとって二月は一人、これまでの一年を振り返り新たな年へ思いを馳せる静かな月…。

 

今年はその二月もあっという間にめぐってきて、

めまぐるしい流れの中、四日目にしてやっと落ち着いて座る時を得たような気がします。

 

たくさんのことがありすぎて、何を書けばいいのか、もはや分からないくらい。

 

時を待っていたあちこちの種が春の日差しに一斉に芽を出すように、あれもこれもと、動いてきているのを感じます。

 

 

 

 「一つの井戸を掘りなさい」

 

 

とは、恐らく多くの方が耳にしている言葉で。

 

知識でも勉強でも修練でも、

あれこれと多くに手を出さず、自分がこれと思った場所で井戸を深く掘り進め、水脈を探しなさい。

 

と、簡単に言えばそういうことなのだろうと思うのですが。

 

 

私は長い間、そんな風に生きているつもりは全くありませんでした。

 

文章を書くのが好きで。

生け花も好きで。

フランス語もやりだしたり。

他にもあれやこれや。

 

自分の人生の軸と感じるものが一つではなく、一つ一つは関係のない場所でちらばっていて。

 

まとまりようのないものたちを、しかしどれも手放せず、

一つの場所に井戸を掘ることが出来ない人生なのだと、なんとなく思っていたようなところがあるのです。

 

 

でもここへ来て、それは違ったのだな、と、まだ仄かながら見える兆しにはっきりと感じることが出来るようになりました。

 

バラバラに見えていたその別々の「ずっとやってきた事」は、本当は「一つのこと」だった。

 そういうことに、気づきはじめたのです。

 

 

たぶん私は今まで、ずっと「準備」をしていたから。

それはそれで必要なことだったけれど、動き出さずに一人準備しているうちには、きっとこのことは見えなかったのだと思います。

 

私が別々のものと考えてきたことたちは、すべて、ひとつながりの命の上にあるものだったということ。

 

花弁と、茎と、葉と、トゲと、

 

そのどれがなくても、バラの花にはならないように。

 

 

おいしい水が、たくさんの種類の野菜と共に、火の力で煮込んではじめて

スープとなるように。

 

 

私がこれまでやってきた、大事に思う一つ一つの事柄は、

この先何かをつくるための「材料」となる基盤のようなものだったのかもしれない。

 

そのつくりたいものが、今すでに存在する名前のついたものであれば

目標とするものに迷わず進んでいる、という自信も持てようものですが。

 

つくろうとするものが、全く新しいか…少なくともここ100年くらい見かけていない、とか

その人独自のものである、とかいう場合、

途中までは一体何の材料を集めているのか、これでつくれるものなどあるのか、きっと自分でも見えないのだろうと思います。

 

でもきっと、この世に生を受けた一人一人、人生の中でその人のつくるものは違っていて。

 

集めるものも、生み出すタイミングも、本当にそれぞれで。

ただの一人も、同じということはなくて。

 

それぞれの命を、どう生かしていくか。

 

見つけたものたちを合わせて、どんな風に、新しい命の動きをつくっていくのか。

 

 

その違いを見ることが、もしかしたら、この世に生きる上で最高に楽しいことの一つなのかもしれない。

 

花や、

水や、

土や、

言葉や、

音楽や、

 

その他無限に連なる、この地球上の、そのままでも「生きている」ものたちを

 

だけど人はきっと、自らの手で更なる命へと「生かす」ことができる。

 

 

だからそのままでもすでに美しい花々を、

水盤の上に新たな命として再び「生かす」華道のことを、

古くから人は「生け花」と呼んだのだと。

 

子どもの頃、生け花を初めた時に習ったはずのそのことが、

どんなに真理をついた言葉だったかと、

今更ながら思い返されます。

 

 

これまで出会った、そしてこれから出会う、様々なものたちを

願わくば一つずつ手に取って。

 

一つの井戸を掘るように、生かしていけますように。

 

 

 

    末富晶

 

<晴空便りホームページ>

seikuudayori.wixsite.com

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

春を待つ間に

f:id:seikuudayori:20170118172139j:plain

<生け花(アオモジ・チューリップ・レモンリーフ)

・末富晶 2017年1月>

 

 

私の住む地域では、この冬は雪があまり降らなかったものだから、

先週2日間ほどの寒波の折の積雪にみんな少なからず気持ちが高ぶったようで、私の見ているSNSのフィールドは友人知人の載せる雪景色で一時的に真っ白になりました。

 

思わず「私も…!」という気持ちになりそうだったけれど、

風邪をひいていたのでおとなしく窓越しに見るにとどめ…。

 

 

きっと、雪がもっと身近な地域の方々は、こんな風にたくさんの人が一気に雪景色の写真を載せる場面に立ち会うことはないだろうし

同じ日の同じ時間にSNSを眺めていても、その内容は全然違うものなのだろうなぁと想像したりしていました。

 

私たちは色んな意味で、同じような感じの人々と集まる傾向にあると思うので。

 

たとえ住んでいる地域にばらつきがあったとしても、

SNSで流れてくる情報には自然と偏りがあり、多少濃淡の差こそあれ、おおかた自分好みのものになっていることでしょう。

 

たぶん、ネットの画面から顔を上げて見える「現実」も基本的には同じようなことで。

 

自分好みの「偏り」を、各々に「普通」だと思って生きている。

 

もし他の人の「現実」を覗くことができたなら、想像以上の「違い」に驚愕するかもしれませんね。

あー、よかった…のかもしれません。そんなことできなくて。

 

 

写真の生け花は、一昨日、華道壮風会の教室にて(私にとっての)今年初稽古で生けたものです。

 

めずらしく、たっぷりと植物たちに入ってもらいました。

 

これまでしばらくの間、華材の数の少ないシンプルな作品が続いていたのですが、

こうしてたくさん生けてみると、これはこれで、楽しくなってくる。

チューリップを眺めていると、もうすぐ春だなぁと心躍る。

 

 

今年はまた更に進んで新しい場所ででも、晴空便りの生け花の時間、つくっていきたいと思っています。

 

詳細は近いうちにまた。

 

春を待つ間に、十分あたたかくして、次にすることを準備しておきます。

 

 

 

   末富晶

 

<晴空便りホームページ>

seikuudayori.wixsite.com

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新しい年にむけて

 

 

f:id:seikuudayori:20170105111356j:plain

 

 

あけましておめでとうございます。

 

数年前には辺り一面雪化粧なお正月もあったと思うのですが、今年はなんだかとても暖かくよく晴れた元日となりました。

 

三が日の間に見た動画で、印象に残ったものがあります。

 

英語のドキュメンタリーだったので隣で説明してもらいながらの視聴だったのですが、

アラスカの先住民族の過去と今を描いたその30分ほどの映像は、すべての言葉を理解できなくても深く心に響くものがありました。

 

その映像を見ながらのある瞬間、強烈に感じたのは、人は文化がなければ生きていけない存在なのだということ。

 

文化という言葉が適切なのかは分からないのですが、あるいは「つながり」と言ってもいいのかもしれない。

 

家族や、他の生き物や、自分の生きている大地とのつながりを大切にし、過去から脈々と続く大きな流れの中に生きていた彼らは、ある日唐突にその流れを打ち切られ、自分たちの文化の外の世界に暮らさなくてはいけなくなった。

 

狩りも、儀式も、言葉もなくし、

生き抜くために外の世界の一員になったけれど。

 

「つながり」をなくしたまま生きることが難しく、多くの自殺者が出ているという衝撃的な内容でした。

 

新年早々にこんなことを書くのは適切ではないかもしれないけれど。

 

最初はどこか遠くの国の話に感じていたその映像が、私には内容を知るほどに自分の国の姿に重なって見えたのです。

 

日本はよく言われるように、自殺者がとても多い国で。

 

私はそれをずっと、その多くは人間が「忙しすぎる」から、つまり「すること」が多すぎるために起こっている出来事なのだろうと思っていました。

 

だけどそれは、違うのかもしれない。

 

人が自ら命を絶つほど絶望する時というのは、すべての「つながり」が切れた(と感じる)状態の時で。

 

それはもしかすると、何も「すること」がない、と思える時のことなのかもしれない。

 

 

「すること」は多いのに、本当の意味での「すること」

つまり自分の人生において価値がある「すること」は一つもないと。

 

そう感じることで起こる出来事であるのかもしれないと思えたのです。

 

 

文化はおそらく、私たちの暮らすこの国の中でも、そういう意味でたくさんの「忘れ物」の宝庫で。

 

どこかの時点で失われた、誰かにとっての価値ある、人生をかけた「すること」がその土地土地に用意されていて。

だけども今は、その在り処が知れないほど地中深くに埋もれてしまっているものも多くある。

 

生け花でも、着物でも。

 

私がそうしたものに心の深くを揺すぶられるのは、おそらくこうして現代につなげられてきたこの土地の文化の中に、自分の「すること」を見つけられる感覚があるからなのだろうと思うのです。

 

そしてそれはきっと、他のたくさんの人にとってそうである可能性も高く。

 

だからこそ、やはり、そのために動いていきたい。

 

春に種を蒔くように。

芽吹く可能性のある土地に、祈るように水をやりたい。

 

いまだ地中に埋もれたままのそれらも一つずつ掘り返し、汚れを洗い、元の姿と使い方を思い出しながら。

 

これから先、

そうしたことがとても大事になってくるのではないか。

 

そう感じて動いている人たちが、私のまわりにもたくさん現れている。

そんな時代になってきたように感じています。

 

 

2017年、

晴空便りはたぶん、ここからが本番。という気がします。

 

本年も、どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

   末富晶

 

 

<晴空便りホームページ>

seikuudayori.wixsite.com

 

 

 

 

 

 

 

 

 

”過程”を生きる

f:id:seikuudayori:20161221111714j:plain

 

子どもの頃から十代にかけて。

私は「すべてを知り尽くした老人」に憧れ、そうなろうとしていました。

 

着飾らず、美食せず、畑を耕し、古い着物を作務衣にしたものを着て。

 

犬か猫を一匹そばに置き、日がな一日、本を読んだり植物の世話をしたり、ゆったりとした時を過ごす。

 

本当の贅沢が満ちた、本物の暮らし。

 

 

自分の中に作り上げたそんなイメージが確かにあり、そうなろうとしていたものだから。

 

髪も顔も洗いっぱなし。

 

畳の上に座ればその姿から「座敷わらし」と呼ばれ、

ごはんを食べればその慎ましい量から「小鳥」と呼ばれ、

毎日下駄を履いていたおかげで足の指は自由に伸びて長く、

それは今でも気に入っているけれど、

つま先のとがったハイヒールなどとても履けない形となりました。

 

「本物」を知っている人は皆そんな姿になるようなイメージがあったから。

 

最初から、最短で、そこに行きたかったから。

 

人生の後半を待つことなく、かなり初期の段階でそういった姿を模していたのだと思います。

 

けれど、模したものが本物になるには、

おたまじゃくしがそのままカエルになるようにはいかない。

 

 

人の形を模した人形が、どうにか人間になろうと思っても、

 きっと何百年経っても、その夢は夢のままであるのと同じように。

 

心と魂の不思議を解明して、それをどうにか自分のものにするまでは。

 

ずっとずっと、長い旅の先に行き着く場所を見つけるまでは。

 

 

大人になってやっと、私はそういうことなのだと思った。

 

髪を編み、化粧を覚え、携帯も持って。

 

そうしたことの一つ一つが、馬鹿にできたものではないと知って。

 

みんなが通る、泣いたり笑ったりの心乱される世界を、楽しめるようになった。

 

 

ボロを着るには、まだ早いのだ。

 

 

その前に、やること、味わうことが、たくさんたくさん、この世界には満ちている。

 

 

そして世界は、おそらく ”結果” ではなくその "過程” がつくる。

  

問いかけのぶんだけ、こたえてくれるもの。

 

けれど自分を「完成されたもの」として扱ってしまえばそこで、世界への問いかけは途切れてしまう。

こんなに不幸なことは、他にないくらいなのに、幼い私はそのことを知らなかった。

 

 

あらゆるものを避けて賢人ぶるのは、

あらゆるものに飛び込んで愚民となるよりも愚かなことなのだと。

 

 

 そう知れて、良かったと思っているのです。

 

 

今年もあと数日。

時々過去を振り返りながら…そんな風に、まいりましょう。

 

 

 

   末富晶

 

<晴空便りホームページ>

seikuudayori.wixsite.com

 

 

 

 

 

 

 

 

 

観々臘月尽

 

f:id:seikuudayori:20161218135001j:plain

 

 

師走も半ばを過ぎると、いよいよ山も白くなり冬の景色を目にすることが多くなります。

 

「観々臘月尽」

みよみよ ろうげつ つく

 

と読むというこの言葉は、先日のお茶のお稽古の時に先生が用意してくださった掛け軸にあったもの。

 

「ほらほら、ぼんやりしている間にもう12月ですよ」

 

という意味なのですよ、と教えていただき

 

本当にそうだわ、一年て早いわ。

 

と思っていたのですが。

 

 

帰ってから数日経って。

かなり遅いのですが、

 

「…12月って、晩年のこと?もしかするとあれは、人生を指しての言葉だったのでは…」

 

と気づくに至りました。

 

「ほらほら、ぼーっとしている間にもう一人生終わりますよ」

 

と。

 

そうならないように、しっかり生きなさい、と。

 

そういう意味でもあったのですね。

 

 

私が住んでいるこの国には、幸運にもはっきりとした四季があるから。

 

自然と春夏秋冬を人生になぞらえるような考えを、誰に教わるともなく受け入れているような気がします。

 

 

春に生まれ

 

夏に育ち

 

秋に老いて

 

冬に死す

 

 

そしてまた、春に生まれ…繰り返し繰り返す

 

たとえば桜の命というものを、

その花と見るのか、木と見るのか、あるいは根とつながる土にまで広げるのかでその「生」と「死」を感知する感覚は大きく異なるけれど。

 

私たち一人一人の命をもし、桜の花に近いものとして捉えるなら。

 

つぎの12月を待たずに否応なく、この形を終えるものなのだとしたら。

 

臘月に尽くのをぼんやり待っていないで、やはり、この形の間にできることをなるべくやっていきたいし、そのために生まれているのではないかと思うのです。

 

 

そういうことを、たぶん私は昔から考えていると思うけれど。

 

最近思うのは、何をやるにしても四の五の言わずにもう人間的なレベルを上げるしかないのだろう、ということ。

 

 

世の中には色んな人が書いたり言ったりする成長や成功のための助言が溢れていて、

一見その通りにすれば今の自分の世界とは違う全く別世界に生まれ変われるかのごとくで。

そしてそれはある意味、その通りなんだろうけれど。

 

 

この世はたぶん、一人一宇宙の世界で。

 

私と隣に座る人との世界は、とても似ているけれど同じではなくて。

 

私の世界の「真実」は、どうしても自分で見つけなくてはならないように出来ている。

 

 

なんとなくだけれど、そんな気がしているのです。

 

 

観々臘月尽

 

 

そしてまた、新しい年がはじまる。

 

 

 

みなさんどうぞ良い冬の日をお過ごしください。

 

 

 

   末富晶

 

<晴空便りホームページ>

seikuudayori.wixsite.com

 

 

 

 

 

 

 

 

贈り物、包む事、あれこれ

 

f:id:seikuudayori:20161213182715j:plain

 (写真:前回の稽古で生けた生け花 華材:三つ又・バラ・レモンリーフ)

 

 

クリスマスが近づき、プレゼントを買ったりラッピングをしたりという機会が増えています。

 

大きなお店で買うと「プレゼント用に」という一言で綺麗に包んでくれるけれど、

そうした場所とはまた違う一風変わった出自の品々だとそうもいかない。

 

必要に迫られて紙で包み、リボンをつけて…という動作をしていくうちに、あれ、もしかしてこれは好きな作業かもしれない…と気づいたのがここ数日の出来事です。

 

 

もう何年も前の話になりますが、木のおもちゃと絵本のお店でアルバイトをしていた時期がありました。

 

クリスマス前になるといつもよりたくさんのお客さんが来てくださって、サンタさんの贈り物のラッピングを任されることもあり、

はっきり言ってちっとも器用じゃない私は重大任務に冷や汗をかいた覚えがあります。

 

 

そんな思い出から「ラッピングは苦手…」と思い込んでいたのですが、

 

今回存外楽しめていることから推察するに、苦手だったのはラッピングではなくて「お客さんを待たせないように早くしなければならない」という自ら生み出したプレッシャーの方だったのかもしれません。

 

 

 プレゼントを包む、なんて。

 

普通に考えて、こんなに幸福な時間は他にいくつもないかもしれない。

 

包装紙の中身を知らない誰かが、わくわくとした気持ちで包みを開ける瞬間がそう遠くないうちに現実に訪れることを知っていて、その一瞬のために、準備をしているのだから。

 

開かれるのを承知で、包んでいるし。

 

ほどかれるのを承知で、結んでいる。

 

 

ある意味とっても無駄な作業とも言えるのに、

ああどうして、幸せと思う瞬間はことごとく「無駄」とされるものの中に含まれているんだろう。

 

「意味」や「結果」や「目に見えるもの」

 

ばかりを追うと、

 

「空間」や「過程」や「言葉にならないもの」

 

の重要性をあっという間に見失ってしまうから。

 

 

バタバタと忙しく動いた後には、きっとこうしてプレゼントを包んだりする時間が必要に違いない。

 

 

そんな風に自分と会話しながら、

冬の雨音を聞いています。

 

 

雪になるのは、まだもう少し先かな。。。

 

 

   末富晶

 

 

<晴空便りホームページ>

seikuudayori.wixsite.com

 

 

 

 

 

 

 

 

12月の生け花の時間、ありがとうございました

f:id:seikuudayori:20161207142424j:plain

 

12月になりましたね。

 

先週土曜日、京都パレスサイドホテルで開かれたイベント「こ・こ・か・ら」さんで、プチ生け花レッスンの時間を持たせていただきました。

 

毎回どんな方が来てくださるかドキドキなのですが、おかげさまで今回も初めての方や2回目の方が何人かお越しくださって、みなさんとその場かぎりの生け花の時間をゆっくり味わいながら過ごすことができました。

 

f:id:seikuudayori:20161207144852j:plain

 

 

…そうなのです。

 

この世に存在する限り、どんな形にも終わりがあるものですが。

お花はその「終わり」に向かって進む変化が、みなさんご存じのようにとてもとても早く。

 

さっき生けたバラの蕾が、次に見た時にはもう別の形に開いている。

ということも、よくあります。

 

どんなに素敵な作品に仕上がったところで、そのままの形で持って帰っていただくことはできないし、

 

家でもう一度水盤に入れていただいたとしても、やっぱり三日と待たずに大きく変化してしまう。

 

 

本当に、生けたその時、一瞬かぎりの出会いなのですね。

 

 

でもどうしてか、だからこそ尊く感じ、

だからこそ、何かとても大切なものをその美しさの中に凝縮して秘めているように思います。

 

 

体験してくださった方お一人お一人の作品を一緒に見せていただいたり、生け花の世界の楽しさや深さを垣間見た喜びなどを伝えていただくうち、

やはり来年からはもっと「晴空便り・生け花の時間」を充実させていくことができればいいなぁと思えました。

 

前にも書いたような気がしますが、やっぱり改めて、身をもって「体験」する機会は大事なのですね。

私も、教える体験をさせていただいてはじめて感じること、本当に色々とあります。

 

やっぱり、教えることは学ぶこと。

 

 

次にお花の時間を持つ機会は来年になると思いますが。

 

また楽しみに準備をしていくつもりです。

 

 

   末富晶

 

<晴空便りホームページ>

seikuudayori.wixsite.com