晴空便り

造形詩家・末富晶の晴れた空へつながるブログ

新しい年にむけて

 

 

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あけましておめでとうございます。

 

数年前には辺り一面雪化粧なお正月もあったと思うのですが、今年はなんだかとても暖かくよく晴れた元日となりました。

 

三が日の間に見た動画で、印象に残ったものがあります。

 

英語のドキュメンタリーだったので隣で説明してもらいながらの視聴だったのですが、

アラスカの先住民族の過去と今を描いたその30分ほどの映像は、すべての言葉を理解できなくても深く心に響くものがありました。

 

その映像を見ながらのある瞬間、強烈に感じたのは、人は文化がなければ生きていけない存在なのだということ。

 

文化という言葉が適切なのかは分からないのですが、あるいは「つながり」と言ってもいいのかもしれない。

 

家族や、他の生き物や、自分の生きている大地とのつながりを大切にし、過去から脈々と続く大きな流れの中に生きていた彼らは、ある日唐突にその流れを打ち切られ、自分たちの文化の外の世界に暮らさなくてはいけなくなった。

 

狩りも、儀式も、言葉もなくし、

生き抜くために外の世界の一員になったけれど。

 

「つながり」をなくしたまま生きることが難しく、多くの自殺者が出ているという衝撃的な内容でした。

 

新年早々にこんなことを書くのは適切ではないかもしれないけれど。

 

最初はどこか遠くの国の話に感じていたその映像が、私には内容を知るほどに自分の国の姿に重なって見えたのです。

 

日本はよく言われるように、自殺者がとても多い国で。

 

私はそれをずっと、その多くは人間が「忙しすぎる」から、つまり「すること」が多すぎるために起こっている出来事なのだろうと思っていました。

 

だけどそれは、違うのかもしれない。

 

人が自ら命を絶つほど絶望する時というのは、すべての「つながり」が切れた(と感じる)状態の時で。

 

それはもしかすると、何も「すること」がない、と思える時のことなのかもしれない。

 

 

「すること」は多いのに、本当の意味での「すること」

つまり自分の人生において価値がある「すること」は一つもないと。

 

そう感じることで起こる出来事であるのかもしれないと思えたのです。

 

 

文化はおそらく、私たちの暮らすこの国の中でも、そういう意味でたくさんの「忘れ物」の宝庫で。

 

どこかの時点で失われた、誰かにとっての価値ある、人生をかけた「すること」がその土地土地に用意されていて。

だけども今は、その在り処が知れないほど地中深くに埋もれてしまっているものも多くある。

 

生け花でも、着物でも。

 

私がそうしたものに心の深くを揺すぶられるのは、おそらくこうして現代につなげられてきたこの土地の文化の中に、自分の「すること」を見つけられる感覚があるからなのだろうと思うのです。

 

そしてそれはきっと、他のたくさんの人にとってそうである可能性も高く。

 

だからこそ、やはり、そのために動いていきたい。

 

春に種を蒔くように。

芽吹く可能性のある土地に、祈るように水をやりたい。

 

いまだ地中に埋もれたままのそれらも一つずつ掘り返し、汚れを洗い、元の姿と使い方を思い出しながら。

 

これから先、

そうしたことがとても大事になってくるのではないか。

 

そう感じて動いている人たちが、私のまわりにもたくさん現れている。

そんな時代になってきたように感じています。

 

 

2017年、

晴空便りはたぶん、ここからが本番。という気がします。

 

本年も、どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

   末富晶

 

 

<晴空便りホームページ>

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”過程”を生きる

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子どもの頃から十代にかけて。

私は「すべてを知り尽くした老人」に憧れ、そうなろうとしていました。

 

着飾らず、美食せず、畑を耕し、古い着物を作務衣にしたものを着て。

 

犬か猫を一匹そばに置き、日がな一日、本を読んだり植物の世話をしたり、ゆったりとした時を過ごす。

 

本当の贅沢が満ちた、本物の暮らし。

 

 

自分の中に作り上げたそんなイメージが確かにあり、そうなろうとしていたものだから。

 

髪も顔も洗いっぱなし。

 

畳の上に座ればその姿から「座敷わらし」と呼ばれ、

ごはんを食べればその慎ましい量から「小鳥」と呼ばれ、

毎日下駄を履いていたおかげで足の指は自由に伸びて長く、

それは今でも気に入っているけれど、

つま先のとがったハイヒールなどとても履けない形となりました。

 

「本物」を知っている人は皆そんな姿になるようなイメージがあったから。

 

最初から、最短で、そこに行きたかったから。

 

人生の後半を待つことなく、かなり初期の段階でそういった姿を模していたのだと思います。

 

けれど、模したものが本物になるには、

おたまじゃくしがそのままカエルになるようにはいかない。

 

 

人の形を模した人形が、どうにか人間になろうと思っても、

 きっと何百年経っても、その夢は夢のままであるのと同じように。

 

心と魂の不思議を解明して、それをどうにか自分のものにするまでは。

 

ずっとずっと、長い旅の先に行き着く場所を見つけるまでは。

 

 

大人になってやっと、私はそういうことなのだと思った。

 

髪を編み、化粧を覚え、携帯も持って。

 

そうしたことの一つ一つが、馬鹿にできたものではないと知って。

 

みんなが通る、泣いたり笑ったりの心乱される世界を、楽しめるようになった。

 

 

ボロを着るには、まだ早いのだ。

 

 

その前に、やること、味わうことが、たくさんたくさん、この世界には満ちている。

 

 

そして世界は、おそらく ”結果” ではなくその "過程” がつくる。

  

問いかけのぶんだけ、こたえてくれるもの。

 

けれど自分を「完成されたもの」として扱ってしまえばそこで、世界への問いかけは途切れてしまう。

こんなに不幸なことは、他にないくらいなのに、幼い私はそのことを知らなかった。

 

 

あらゆるものを避けて賢人ぶるのは、

あらゆるものに飛び込んで愚民となるよりも愚かなことなのだと。

 

 

 そう知れて、良かったと思っているのです。

 

 

今年もあと数日。

時々過去を振り返りながら…そんな風に、まいりましょう。

 

 

 

   末富晶

 

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観々臘月尽

 

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師走も半ばを過ぎると、いよいよ山も白くなり冬の景色を目にすることが多くなります。

 

「観々臘月尽」

みよみよ ろうげつ つく

 

と読むというこの言葉は、先日のお茶のお稽古の時に先生が用意してくださった掛け軸にあったもの。

 

「ほらほら、ぼんやりしている間にもう12月ですよ」

 

という意味なのですよ、と教えていただき

 

本当にそうだわ、一年て早いわ。

 

と思っていたのですが。

 

 

帰ってから数日経って。

かなり遅いのですが、

 

「…12月って、晩年のこと?もしかするとあれは、人生を指しての言葉だったのでは…」

 

と気づくに至りました。

 

「ほらほら、ぼーっとしている間にもう一人生終わりますよ」

 

と。

 

そうならないように、しっかり生きなさい、と。

 

そういう意味でもあったのですね。

 

 

私が住んでいるこの国には、幸運にもはっきりとした四季があるから。

 

自然と春夏秋冬を人生になぞらえるような考えを、誰に教わるともなく受け入れているような気がします。

 

 

春に生まれ

 

夏に育ち

 

秋に老いて

 

冬に死す

 

 

そしてまた、春に生まれ…繰り返し繰り返す

 

たとえば桜の命というものを、

その花と見るのか、木と見るのか、あるいは根とつながる土にまで広げるのかでその「生」と「死」を感知する感覚は大きく異なるけれど。

 

私たち一人一人の命をもし、桜の花に近いものとして捉えるなら。

 

つぎの12月を待たずに否応なく、この形を終えるものなのだとしたら。

 

臘月に尽くのをぼんやり待っていないで、やはり、この形の間にできることをなるべくやっていきたいし、そのために生まれているのではないかと思うのです。

 

 

そういうことを、たぶん私は昔から考えていると思うけれど。

 

最近思うのは、何をやるにしても四の五の言わずにもう人間的なレベルを上げるしかないのだろう、ということ。

 

 

世の中には色んな人が書いたり言ったりする成長や成功のための助言が溢れていて、

一見その通りにすれば今の自分の世界とは違う全く別世界に生まれ変われるかのごとくで。

そしてそれはある意味、その通りなんだろうけれど。

 

 

この世はたぶん、一人一宇宙の世界で。

 

私と隣に座る人との世界は、とても似ているけれど同じではなくて。

 

私の世界の「真実」は、どうしても自分で見つけなくてはならないように出来ている。

 

 

なんとなくだけれど、そんな気がしているのです。

 

 

観々臘月尽

 

 

そしてまた、新しい年がはじまる。

 

 

 

みなさんどうぞ良い冬の日をお過ごしください。

 

 

 

   末富晶

 

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贈り物、包む事、あれこれ

 

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 (写真:前回の稽古で生けた生け花 華材:三つ又・バラ・レモンリーフ)

 

 

クリスマスが近づき、プレゼントを買ったりラッピングをしたりという機会が増えています。

 

大きなお店で買うと「プレゼント用に」という一言で綺麗に包んでくれるけれど、

そうした場所とはまた違う一風変わった出自の品々だとそうもいかない。

 

必要に迫られて紙で包み、リボンをつけて…という動作をしていくうちに、あれ、もしかしてこれは好きな作業かもしれない…と気づいたのがここ数日の出来事です。

 

 

もう何年も前の話になりますが、木のおもちゃと絵本のお店でアルバイトをしていた時期がありました。

 

クリスマス前になるといつもよりたくさんのお客さんが来てくださって、サンタさんの贈り物のラッピングを任されることもあり、

はっきり言ってちっとも器用じゃない私は重大任務に冷や汗をかいた覚えがあります。

 

 

そんな思い出から「ラッピングは苦手…」と思い込んでいたのですが、

 

今回存外楽しめていることから推察するに、苦手だったのはラッピングではなくて「お客さんを待たせないように早くしなければならない」という自ら生み出したプレッシャーの方だったのかもしれません。

 

 

 プレゼントを包む、なんて。

 

普通に考えて、こんなに幸福な時間は他にいくつもないかもしれない。

 

包装紙の中身を知らない誰かが、わくわくとした気持ちで包みを開ける瞬間がそう遠くないうちに現実に訪れることを知っていて、その一瞬のために、準備をしているのだから。

 

開かれるのを承知で、包んでいるし。

 

ほどかれるのを承知で、結んでいる。

 

 

ある意味とっても無駄な作業とも言えるのに、

ああどうして、幸せと思う瞬間はことごとく「無駄」とされるものの中に含まれているんだろう。

 

「意味」や「結果」や「目に見えるもの」

 

ばかりを追うと、

 

「空間」や「過程」や「言葉にならないもの」

 

の重要性をあっという間に見失ってしまうから。

 

 

バタバタと忙しく動いた後には、きっとこうしてプレゼントを包んだりする時間が必要に違いない。

 

 

そんな風に自分と会話しながら、

冬の雨音を聞いています。

 

 

雪になるのは、まだもう少し先かな。。。

 

 

   末富晶

 

 

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12月の生け花の時間、ありがとうございました

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12月になりましたね。

 

先週土曜日、京都パレスサイドホテルで開かれたイベント「こ・こ・か・ら」さんで、プチ生け花レッスンの時間を持たせていただきました。

 

毎回どんな方が来てくださるかドキドキなのですが、おかげさまで今回も初めての方や2回目の方が何人かお越しくださって、みなさんとその場かぎりの生け花の時間をゆっくり味わいながら過ごすことができました。

 

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…そうなのです。

 

この世に存在する限り、どんな形にも終わりがあるものですが。

お花はその「終わり」に向かって進む変化が、みなさんご存じのようにとてもとても早く。

 

さっき生けたバラの蕾が、次に見た時にはもう別の形に開いている。

ということも、よくあります。

 

どんなに素敵な作品に仕上がったところで、そのままの形で持って帰っていただくことはできないし、

 

家でもう一度水盤に入れていただいたとしても、やっぱり三日と待たずに大きく変化してしまう。

 

 

本当に、生けたその時、一瞬かぎりの出会いなのですね。

 

 

でもどうしてか、だからこそ尊く感じ、

だからこそ、何かとても大切なものをその美しさの中に凝縮して秘めているように思います。

 

 

体験してくださった方お一人お一人の作品を一緒に見せていただいたり、生け花の世界の楽しさや深さを垣間見た喜びなどを伝えていただくうち、

やはり来年からはもっと「晴空便り・生け花の時間」を充実させていくことができればいいなぁと思えました。

 

前にも書いたような気がしますが、やっぱり改めて、身をもって「体験」する機会は大事なのですね。

私も、教える体験をさせていただいてはじめて感じること、本当に色々とあります。

 

やっぱり、教えることは学ぶこと。

 

 

次にお花の時間を持つ機会は来年になると思いますが。

 

また楽しみに準備をしていくつもりです。

 

 

   末富晶

 

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12月3日(土)「生け花の時間」

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あれこれしている間にもう今週末

 

今回もまた「こ・こ・か・ら」さんのイベントに出展させていただけることになりました。

 

12月3日(土)10:30 ~ 17:30

京都パレスサイドホテル2階

 

での開催です。

 

私は「晴空便り」として1ブースいただいて、「生け花の時間」として来ていただいた方にお花を生けていただこうと考えています。

 

 

お花を生けるのがまったくはじめて、という方でも大丈夫です。

「型」や「決まり」のない生け花ですので、どうぞリラックスして楽しんでいただければと思います。

 

・お花が好きな方

・型のない生け花ってどんなものかな、と思われる方

・なんとなく興味を持った方

 

 

お時間ありましたら、秋の終わり…もしくは冬の初めの京都へどうぞお越しください。

 

ふらりと来ていただいてももちろん嬉しいのですが、色々会場内をうろうろしている可能性もあり、ご予約いただければ確実にその時間ブースにおりますので、もし良ければメールフォームよりお越しになる時間をお知らせいただけたら嬉しいです。

(準備するお花の数のめどがついてとっても助かります)

 

 

今回は下記内容で、開催させていただきます。

 

心の庭に花咲かそ ~生け花の時間~

・ほっと一息…生け花の時間 20分~30分 2,000円(花代込み)

小さな器の中での生け花体験。
好きなお花を選んでいただいて、

その日の心のまま生けるお手伝いをさせていただきます。

 

・ゆっくり向き合う…生け花の時間 40分~50分 3,000円(花代込み)

じっくり心とお花に向き合いたい方はこちらをどうぞ。
好きなお花と器で、お花と言葉を越えた場所で対話をしながら、

ご自身の心の奥の風景を水盤に現すお手伝いをさせていただきます。

 

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詳しい内容、アクセスはどうぞ「こ・こ・か・ら」さんのホームページをご覧ください↓

ko-ko-ka-ra.com

 

晴空便り・生け花の時間のページはこちらです↓

http://ko-ko-ka-ra.com/?mode=cate&cbid=2159395&csid=0

 

 

 

 「こ・こ・か・ら」さんでは手相やタロットなどの占いから、本格的なアロママッサージのブース、物販など、個性的な出展者の皆さんがそれぞれのブースを持たれています。

 

このような場所で生け花のコーナーを持つ人は珍しい(もしかしたら他にいない)らしいのですが、不思議と心地よく、もう3度目の出展です。

 

良き日となりますように・・・

 

当日お会いできるみなさま、

どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 

   末富晶

 

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私の中の「真実」と、たくさんの人の声

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昨日、大津市市民活動センターさん主催の「不登校の子どもを抱える親やご家族の悩みを共有する会」に参加して、少しですが私自身の不登校体験のお話をさせていただきました。

 

事前申し込み不要の会だったので、主催者の方も一体何人くらいの方々が集まってくださるのか当日にならなければ分からなかったような状態だったのですが、蓋を開けてみれば会場がほぼいっぱいになるほど、たくさんの方に来ていただきました。

 

私の他に、普段子どもたちの支援をされているNPO法人などの団体さんが3団体お話をされることになっており。

話す順番を知ったのは開始直前だったのですが、なぜか私が最後、大事な締めの役割ということになって、3団体の方々の活動のお話を感心したり納得したりして聞かせていただき、「私だけ全然違う超個人的な話だけど良いかしら」と思いながらの出番待ちでした。

 

最後だったので、私がお話をはじめさせていただく頃にはすでに開始から1時間以上が経過していて・・・

 

以前に話上手の友人から

「人が集中して話を聞けるのは1時間前後。だから学校の授業もそれくらいで休憩に入る」

と聞いていたので、肩の力をぬいて気楽に聞いてもらったらいいなと思い、そのまま

「時間的にきっとお疲れだと思うので、どうぞリラックスして聞いていただければと思います」

とお伝えしてから話はじめたのですが。

 

ぼーっとされたり、

眠くなったりしても仕方ないだろうと思っていたのに。

 

みなさんが本当に、真剣に聞いてくださるので。

 

私も話しているうちにどんどんと熱が入り、

今ここで伝えたいこと、この日これだけは言おうと思ってきたこと、を上手くとは言えないまでも私なりにしっかりお話することができました。

 

1時間を超えていても、それほど真剣に聞いてくださるということは、それだけ真剣な思いを持って集まっておられたということなのだろうと思います。

 

「やっとの思いでここまで来た」という方もおられたのかもしれません。

 

それだけ「本気」の満ちた空間でした。

 

 

その「本気」を身体中で浴びながらお話をさせていただいて、今更ではありますがやはり私には「不登校を経て大人になった人」として出来ることが何かきっとあり、どんな形かでも、これからもそれを続けていくのだろうと思えたのです。

 

昨日させていただいた話の中で、私が「これだけは」と思って何度か口にしたのは

 

「大多数の人が「そうだ」ということが、真実であるとは限らない」

 

という内容の言葉でした。

 

 

たぶん大勢の人が、「不登校=(イコール)不幸なこと」と考えていて。

 

私も最初の頃は、それをそのまま受け入れて

不登校児である私=不幸な人」という図式に苦しんでいたのですが。

 

ある時、延々続くかと思われた暗澹たる時間の中で

 

「それは本当なのか?」

 

という疑問を持つことが出来ました。

 

今振り返ればきっとその時に、暗い雲の隙間から一縷の光が差したのだと思います。

 

そしてその光は、「今現在その経験の真っ只中にいる自分こそ、それを「本当」にも「嘘」にもすることが出来る存在なのだ」という気づきに繋がっていったのです。

 

 

「大勢の人が「きっとそうだ」と思っていること」

 

 

「自分の真実」

 

は違っている場合もある。

 

 

そして、「自分の真実」は自分が決めて良いのだと。

 

  

もしかしたらそれが、「自由」ということなのかもしれません。

 

 

この広い世界の中で、何を自分にとっての真実としていくか。

 

 

この先もきっと、その問いかけは続いていくのだろうと思います。

 

 

 

 

昨日あの場で話を聞いてくださった皆さん

本当に、ありがとうございました。

 

 

 

   末富晶

 

 

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