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晴空便り

造形詩家・末富晶の晴れた空へつながるブログ

私の不登校記~その17~

不登校と私

 

不登校の経験を綴ったエッセイその17です。

♪その1はこちらからどうぞ。

 

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<華道壮風会(後)>

 

不登校児として暮らしている間、学校以外のあらゆる場所が私にとっての「学び場」だったわけなのですが、華道壮風会の教室には今現在も通っており、その中でも例外的に長くお世話になっている場所だと言えます。

 

これほど長く続けられている理由には、もちろん先生や他の生徒さんたちのおかげもありますが、それ以上に「華道」という世界に一生を通じて学ぶべきものを見出せたことが大きいのではないかと思っています。

 

 

学校へ行かなくなってしばらくの間、私は深い悩みの時間を過ごしていました。

 

「この先どうなるのだろう」

 

という言いようのない不安から膨れ上がる思いの数々を、絶え間なく頭の内に流しているばかりだったのです。

 

けれどお華の教室が終わり帰る時は必ずと言っていいほど、少しすっきりとした気持ちに変わっていました。

 

たとえ稽古の中で生けた作品に先生からの褒め言葉が一つもない日であっても、不思議なことにそれは同じだったのです。

 

 

思うにそれは、植物の持つ力のおかげなのかもしれません。

 

生きた花や枝には、大地から離れてもなお、土に繋がっていた頃の生き生きとした力が宿っています。

茎や葉に触れ、一つ一つの姿をじっと見つめるうちに、知らず知らず私はその植物の持つ「気」をいただいていたのでしょう。

 

 

悩みや考え、自分でも気づいていないようなあれこれが、生け花では植物の姿をかりてすぐ目の前に見える形で現れてくれる。

 

自覚するしないに関わらず、それを繰り返すうち少しずつ心は整い、重い考えは霧散していったのでした。

 

 

 

高島市社会福祉協議会広報「しふくのふくし」NO.65より

 

~あとがきのようなもの~

水盤の上に、心の景色を広げる稽古は、まだまだ続いています。
最近、他の方々にもこの深い世界の入り口へとご案内する機会を持つことができるようになってきました。
私個人の「晴空便り生け花教室」も開いています。
興味を持たれた方は、どうぞ下記「晴空便りのホームページ」よりお問い合わせください。

 

松井禾風先生の

華道壮風会ホームページは→こちらからどうぞ。

 

 

   末富晶

 

 

 

<晴空便りホームページ>

seikuudayori.wixsite.com

 

 

 

 

 

 

 

私の不登校記~その16~

不登校と私

 

不登校の経験を綴ったエッセイその16です。

♪その1はこちらからどうぞ。

 

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<華道壮風会(中)>

 

華道壮風会会主の松井禾風先生との出会いによって華道というものに触れることになった私でしたが、最初に生けた花はどんなものだったのか、体験してどんなことを感じたのかといった細かなことは残念ながら覚えていません。

 

ただ、先生は

 

「大人はこういう時、きっとこう言うだろう」

「私たちに対して、こういう反応をするだろう」

 

という、当時の私が持っていた生意気な物差しが全く通用しない人で、そのことを新鮮な驚きと共に受け止めていた気がします。

 

子どもだから、不登校児だから、といった特別扱いは一切なく、そのことで却って私はほっと力を抜くことができたのだと思います。

 

 

後の先生の言葉では

不登校になる奴はだいたい賢いんやから、嘘やおべんちゃらはすぐバレるに決まってる」

とのことなのですが、

不登校児かどうかが関係あるかはともかくとして、その頃の私は確かに先生が「本当」に話をしてくれる人であることをしっかりと感じ取っていました。

 

しかし、「本当」のことは耳に心地よいものばかりではなく。

 

大人へと成長途中の私の中で勢いよくグングン伸びていた「思い上がり」や「過度な自信」なども、教室へ通ううち、ここぞというタイミングで幾度もバシーンと折られたのです。(もちろん本当にそんな音がするわけではないのですが)

 

 

当時の私には知る由もありませんが、「華道」は花を通じて自分を知る「道」だったのです。

 

等身大の私、つまり自分自身の未熟さにまず向き合わなければならないはめになったのは、当然といえば当然の流れなのでした。

 

 

<つづく>

 

 

高島市社会福祉協議会広報「しふくのふくし」NO.64より

 

~あとがきのようなもの~

今回は三部作でつづいています。後編も早めにアップしますね。

華道壮風会のホームページは→こちらからどうぞ。

 

 

   末富晶

 

 

<晴空便りホームページ>

seikuudayori.wixsite.com

 

 

 

私の不登校記~その15~

不登校と私

不登校の経験を綴ったエッセイその15です。

♪その1はこちらからどうぞ。

 

 

 

<華道壮風会(前)>

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人生の中で、折に触れ何度も振り返る印象的なシーンというものがあります。私の場合、その多くは人との出会いの場面です。

 

その後の自分の人生に大きく関わる重要な出会いだとその時予感していることもあれば、全く気付いていないこともあったり。

 

恐らくはそれがよほど特別な場面だったから印象に残っているというよりも、幾度も繰り返して思い出しているうちに特に色濃い記憶へと成熟したという方が正しいのかもしれません。

 

そんな何度も思い出す特別な思い出の一つに、華道壮風会の松井禾風先生との出会いがあります。それは不登校児となって2~3年の頃、不思議なめぐり合わせで訪れた出会いでした。

 

当時私は11才くらい。学年で言えば小学5年生だったと思います。

よく遊びに行っていた同じ不登校児の友だちの家に、ある日禾風先生がたくさんの華材を持って突然現れました。

 

その友だちの家では客間で月に1、2回先生を呼んで壮風会の教室が開かれていて、主にその友だちのお母さんとご近所の方数名が習っておられたのです。

その日は教室の日ではないはずなのに、先生がうっかり間違えて来てしまったのでした。

そこでたまたま遊びに来ていた私が、「やってみないか」と声をかけてもらう流れになったのですが・・・。

 

実はこの偶然が、その先20年以上、現在にまでずっと繋がる私と華道壮風会の重要な出会いとなったのでした。

 

→ その16へつづく 

 

高島市社会福祉協議会広報「しふくのふくし」NO.63より

 

~あとがきのようなもの~

今回は前・中・後編三部作でつづいています。続きは早めにアップしたいと思います。

華道壮風会のホームページは→こちらからどうぞ

 

 

   末富晶

 

<晴空便りホームページ>

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着るものに、宿るもの

晴空便り

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先日、ある人と着物の話をしていて。

ふとした瞬間にその方がおっしゃった

 

「着物には、微生物が住んでいますからね」

 

という言葉が、それから何日もたった今もなんだか忘れられずに心に残っている。

 

昔の布、絹や綿やウールは、いろんな目に見えない生き物の住処になっているらしいと。

 

ごく当たり前かもしれない話だけれど、そういう視点からはあまり考えてみたことがなかったのでとても新鮮に感じたし、そんなことを考えたこともなかったということ自体が少しショックでもありました。

 

ああ、だからか。

 

だから昔の着物は、生きている感じがするのか。

 

着物を着るということはつまり、布の材料となった植物なども含めた命を纏うということなのか。

 

と、一人になった電車の中で大きくうなずいたのです。

 

 

大手アパレルメーカーの広告動画で、「何十回洗ってもOKな丈夫な服」を宣伝しているけれど。

 

服との付き合い方がそんな風に変わったのは、一体いつ頃からだったんだろうと、たぶん動画制作者の意図とはまるで違う視点で、何度もクルクル早回しで洗濯機に入れられるその服の様子を眺めていました。

 

「大切に扱う」以外に、服が長持ちする可能性があるなんて。少し前まで私たちは、考えてみたこともなかったんじゃないだろうか。

 

 家も、家具も、着るものも、何もかも。

 

本当に、ほんの少し前まで、手に入れたその時から劣化が進むようなただの「物」ではなくて。

出会ったその時から関係が始まり、付き合いが深まるごとに愛着も価値も増すような関係性がごく当たり前にあって。

 

誰かと出会って、恋をしたり、友だちになったりするのと同じように。その「物」ごとに異なる関係性を、長い時間をかけて育てていって。

地球上に生きるあまたの生物の力と、人間の作り手の心によってこの世に生まれた「物」を、あるいは「命」として捉えていたのではないんだろうか。

 

ああだから、使い込んだ物たちにいよいよ寿命が来て最後に命尽き果てた時、それらを「供養する」という考え方があったんだ。

 

今の「物」は「命」よりも「商品」と捉えられていること多いから。

買ってきた服が何らかの理由で着れなくなったりした時、

 

「もったいない。高かったのに」

 

というような言い方をするのが普通だと思い込んでいたりする。

 

でも本当は、 もったいないのはその命を生かすことができなかったからなんだろう。

 

 

人と人との関係が希薄になりつつある現代が「無縁社会」と呼ばれたけれど。

 

「縁」はたぶん、人間同士の間にだけあるものではなくて。

 

他の生物や、心の宿った服や道具や、自分の立つ大地などとも当たり前に結ばれているものだろうと思うのです。

 

まわりにある、自分たち以外の「命」に目を向けて。

もう一度、そのつながりを大切に扱っていく。

 

 

そんな時代がこれから、やって来るような気がしています。

 

 

   末富晶

 

 

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明るい火を、灯せる人に

晴空便り

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 (「灯り」2013年華道壮風会神戸展出展作品・ギャラリー島田)

 

 

秋晴れの気持ちよい日が続きます。

 

ブログを書かない間にも、裸足で山に登ったり、着物の着付けを特訓したり、植物園で珍しいバオバブの花を見たりと色んなことがありました。

 

 

楽しいことで燃やした火を 

過去へ過去へと置いてきた

 

来た道は今灯り 

暗い夜の真ん中で 

ひっそりと白く浮かび上がる

 

 

これは何年か前の展示会に出展した作品に使った詩の一部ですが、まさにそんな心境です。

 

 

だんだんと、世界が暗くなるにつれ、灯りのともる場所もはっきりとしてきている。

 

そこに集まり、身を温めることも時には必要だけれど。

 

ここにこうして生まれたからには、出来れば、明かりを分けてもらうだけにとどまらず、自ら灯せる人になりたいなと思うのです。

 

 

そのために必要なこととは、何だろう。

 

 

はっきりとした言葉が見つけられないけれど、それはなにか、「勇気」とか「決心」とか、もう少し強い言い方だと「覚悟」とかいうものなのかもしれない。

 

 

一つの人生の中で、誰もがもし、「成長」という経験をしているのなら。

 

どこかの時点できっと、もう悠長なことは言っていられない、心を決めるしかない、という段階がやって来る。

 

それはたぶん、新たな自分への脱皮の時期で。

 

 

覚悟を決めて開いた扉の先には、またきっと、思いもよらない広い世界が広がっている。

 

学校をやめた先に、想像もできない素晴らしい未来が待っていてくれたように。

 

 

事前に知らせておいてもらって、良さそうだったら、開けてみようかな。とか。

 

残念ながら…いえ、幸運にも、そんなことは出来ないようになっているのですね。

 

 

私たちはいつも、探しているものの正体を知らない。

 

見つけられるほどに成長していなければ、それを事前に知ることも出来ない。

 

「そんなものがあったとは、そんな世界があったとは、今まで思いもしなかった」

 

そういうものでなければきっと、本物ではないのでしょう。

 

 

明るい火を灯せる人になって。

 

その先にある、今まで全く知らなかった世界に。

 

そろそろとでも、そわそわとでも、足を踏み入れていけるように。

 

 

そんなことをあれこれ、つらつらと考える日々です。

 

 

 

   末富晶

 

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教えることは学ぶこと

 

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今月1日の「こ・こ・か・ら」さんのイベントで、プチいけばな体験コーナーをもたせていただきました。

 


何の心の準備もないところで、突然生け花…「やってみよう」という方、どれくらいおられるのかなぁ…なんて始まる前は思っていたのですが、

想像していたよりもずっとたくさんの方が「やってみたい」と声をかけてくださり、なんと用意してきたお花は見事になくなり、それぞれの体験者さんのお家に持ち帰っていただけたのでした。

 

そんなわけで本当に、

ありがたく、

楽しい時間でした。

 

ほとんどの方が、生け花をすること自体が初めてで

「生まれて初めて剣山を使いました」

と言われたり。

 

小学生の頃に生け花に出会った私としては、そんな風な色々なコメントを、へーそうなんだ、と新鮮な驚きと共に受け取りました。

 

何より嬉しかったのは、普段から私がホームページやブログで書いている

 

「お花を生けることは、自分の心に向き合うこと」

 

という感覚が、体験してもらえばすぐに「そうか」とピンときてくださる人が多かったこと。

 

 

文章で伝えようとするより、もう何十倍も早い…!

という気がして、改めて身体をもっての「体験」ってすごいんだなぁと思ったしだいです。

 

もちろん、「こ・こ・か・ら」さんのような「心」と「身体」のためのイベントに来ている方々なので、もともとそうした「感じる力」を育てている方が多いということもあるかもしれませんが。

 

おかげさまで、私がやりたい「晴空便りのお花」の世界の可能性がより開けたような。

その方向は間違ってないよ、と言ってもらったような。

とにかく勇気をもらったような。

 

次への糧となる一日になりました。

 

 

それにしても「教えることは学ぶこと」とよく聞きますが本当にその通りで。

 

 伝える側に立った今から始まること、学ぶことがたくさんあると感じます。

 

これからのことに比べれば、むしろ今までは何もはじまってなかったに等しいのかもしれない…。

(いや、それは少し言い過ぎかな。もちろん、今までがあってのこれからですが。)

 

とにかく、ここから、また新しいステージ。

扉を開けて、進んでいきます。

 

 

   末富晶

 

<晴空便りホームページ>

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2016年秋の東京展を終えて

晴空便り 生け花

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東京表参道での華道壮風会現代生け花・現代美術展への出展を終え、無事に住み慣れた関西へ帰ってきました。

 

今回の華材はミツマタとイヴ・ミオラという種類のバラ。

 

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よく見ると、この子は何か丸い球を持っています。

 

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上にある詩の内容は、以下のとおり。。。

 

 

「世界のはじめに」

 

はるかかなたの ほしのこえを 

うたにしようとしたのが はじまりだった

 

ずっと昔のわたくし

 

よるのにおいの かぜにたち

うちなる こどうを きいていた

 

まだ わたくし いがいの だれも

このよに そんざい しなかったころ

 

よるのにおいは ただみちて

つきを きよらに ひからせた

 

ずっと昔のわたくし

 

その こうけいが いま

こころに ひそと うつる

 

 

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見にきてくださった方、壮風会メンバーの方、それからもちろん松井禾風先生、本当にありがとうございました。

 

毎回展示会に参加させてもらうたび、ここまで来れた充実感と、まだまだ道半ばという実感を同時に味わうことになり、謙虚になるのにやる気も出るような、なんだか不思議な感じになります。

 

作品作りはたぶん、どこまで自分の内面の世界を現実に現すことが出来るかということの追求と呼んでいいのだろうと思うのですが。

よく考えてみれば作品をつくるという形でなくても、誰もが日常でそれと知らずにやっていることでもありますね。

 

カタログの中から色と形を選んで、それを好きに並べて部屋を心地よくするのは簡単だけれど。

 

本当は、本当に現したい「私の世界」は、あらかじめ決められたパターンの中には存在していない。

 

きっと誰もが自分の内側に、一人一人違った「それぞれの世界」を持っていて。

 

それを自分で現したり、現れている誰かの世界を見せてもらうのを楽しみに待っている。

 

 

そんな気がします。

 

 

「私の世界」の一部である晴空便り、これからもそんな風に、続けていきます。

もしよろしければ、また今後ともおつきあいよろしくお願いします。

 

 

   末富晶

 

 

 

<晴空便りホームページ>

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