晴空便り

造形詩家・末富晶の晴れた空へつながるブログ

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 <いけばな・ストレリチアフウセントウワタ・ポリシャス> 末富晶 11月

 

 

ストーブに火を入れて、暖かな部屋で文章が書ける幸せ。

 

だんだんと、冬が近づいてきました。

 

またまたお久しぶりの晴空便りですが、皆さんお元気でお過ごしでしょうか。

 

 

大人になった時こんな風になってたらいいな、と私が小学生くらいの時にあこがれていたのは

「家にいて、犬を飼っていて、文章を書いて暮らしている」

という漠然としたイメージでした。

 

色々と予想外なことも多いけれど、

全体的に見ればなんとなくそのとおりになっている。

 

将来の夢は何か、という質問は一般的なものだけれど。

 

普通はそれには、なりたい職業などをこたえることになっていて。

 

世の中にどんな仕事があるのかさえまだよく知らないうちには、それにこたえるのが難しかったけれど。

 

たくさん外国を旅したい、という人もいれば。

私のように、家にいるのが好き、という人もいて。

 

そんなことなら多分、小さな頃から「好きなムード」は変わっていないのかな、とも思えます。

 

 

このところ、過去のことを思い出しながら文章を書くことが日常になっていて。

主に不登校児となった小学生頃から十代にかけての自分に寄り添う日々が続いています。

 

忘れていたこと、印象深くずっと記憶に残っていること、色々あるけれど。

 

注意深く探っていけばいくほど、昔からあるはずの「本来の私」の姿が、雲を掴むように見えなくなっていく。

 

一定して一人の個人であった…というのは、私の幻想なのかしら、と思えるほど一貫性があるようでないことに気づくのです。

 

今がこんな風だから、未来はきっとこうなるだろう、と予測するのと同じように。

今がこんな風だから、過去はきっとこうだっただろう、と少なからず今を基準に過去を考えている。

 

実際にはずっと同じ「私」というものなど存在せず、

あるのは変わり続けている一つの流れだけなのかもしれません。

 

 

昨日までずっと「そう」だったからといって、

今日も同じでなければならない…ということはない。

 

変容を繰り返し、今をよくしていくことが

きっと未来だけでなく、過去も素晴らしく変えていく。

 

未来と過去の、両方が

常に「今」によって書き換えられているのかな、と思えます。

 

 

なんだか雨の日に書くことが多い晴空便り。

 

今日もしとしと、雨音を聞きながら。

 

 

どうぞ素敵な紅葉の日々をお過ごしください。

 

 

   末富晶 

 

 

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雨の日に

 

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<いけばな・バラ・雪柳> 末富晶 2017年10月

 

 

雨の日が続きます。

 

聞けば、台風も来ているのだとか。

10月の後半になってまだ台風の名を耳にすることは珍しい気がしますが、どうでしょう。

 

いつだったか、雨の日にバスに乗っていて。

一緒に乗っていた方が

「今日は山が見えないね」

とおっしゃった。

 

つられて同じ場所に目線をやると、

なるほどいつもはきれいに見えている山並みが

白くかすんで見えなくなっていて。

 

私はふと、何気なく

 

「天気が悪いからね」

 

と返したのですが。

 

その方はその言葉が気になったようで、

私に顔を向けると

 

「雨を悪い天気というのはおかしいよ」

 

そういうことに、気づかなければ。と、言ったのです。

 

なるほど、たしかに。本当だ。

油断している時ほど、こういうことを言いがちで。

晴れた日を天気が良い。

雨の日を天気が悪い。

そう呼ぶのは、現代日本においては別におかしなことじゃなく、全く「普通」のことなのだけど。

 

その普通はどこから来たのか。

一体だれが決めたのか。

本当にそうなのか。

 

そういう問いを通さずにただただ使われているままに採用すると、

知らないうちに、その奥にある考え方まで採用してしまうことになる。

 

言葉は便利なものだけど、

それは本当に、こわいことでもあるのだなと感じるのです。

 

つい口にのぼるそうした言葉の一つ一つを、感じられる人でいたい。

 

そして、そうしてみると

雨はやはり、別に悪くない。

 

雨よ、ごめん。

と、思うのです。

 

 

今日は靴の修理屋さんに行って、

前々からずっときれいにしたかったショートブーツを手入れしていただいたのですが、

本当に見違えるほど美しくピカピカの黒色をとりもどしてくれて

すごくすごく嬉しかったです。

 

見ていただいたところ、かかとがすり減っていて、底もちょっと外れかけていて、中敷きもダメになっていて。

 

実はそのブーツはある方からもう履かないからといただいたものなのですが、

いただいた時は新品に近い状態だったのに

私の元に来てからは毎年酷使され、ほぼ6年ほどでそんな状態となっていました。

 

かかとのゴムを代えてもらって、すり減ったところは詰め物でなおしてもらって、底も応急処置してもらって、中敷きも代えてもらって、

クリーニングと艶出ししてもらって。

 

くたびれてしわしわのグレーになってたブーツが、

シャキッと黒の自信をとりもどしてものの数十分でかえってきてくれました。

 

なんということ。

魔法か。と、言いたくなります。

 

予想以上に素敵になって戻ってきたブーツに足を入れると、

それはたしかに私の足に馴染んだブーツの感覚で、

新品を買った時よりもずっと嬉しく感じたのです。

 

「いい靴ですよ。手入れしながら、あと10年は十分履けます」

 

と、靴修理職人のお兄さん。

 

その言葉もとても、嬉しかった。

あと10年も、付き合える。

よい靴って、すごいのだな。

 

ぜひとも、手入れして大事に使って行こうと

心が明るくなったのです。

 

 

それにしても、

修理を待っている間スリッパをかりて店先の椅子に座っている時間も、なかなかに面白かった。

 

読みたい本があったので、何十分でもそこにいれると思ったのですが、

ちょうど人の出入りがある時間帯だったようで

私が店先に座っている間、いろんな方がいろんな事情でいろんな靴を持って間をおくことなく現れるので

そのやり取りの方に気が行って、実はあまり読む時間がありませんでした。

 

修理依頼の電話もいっぱい鳴るし、

すごいなー、流行ってるんだなーと

こうした種類のお店がにぎわっていることにほのかな光を感じていたのですが

 

ブーツが仕上がり、おそくなったと頭を下げるお兄さんに言わせると

「今待っていただいていた間が、ここ半年で一番の繁盛でした。びっくりしました。お待たせしてすみません」

とのこと。

 

こういう時、

自分がいた時にちょうどお店が流行った。と聞くのは、

なんだか嬉しい気がするのです。

 

 

さらに美しさに磨きをかけたブーツと共に、気持ちも新たに。

 

この冬も、どうぞよろしくお願いします。

 

 

 

   末富 晶

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からたちも秋はみのるよ

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現代文人生けの会場にさせていただいている蘆花浅水荘

 

 

お庭の奥に、大きなからたちの木があります。

 

これがあの童謡に歌われている「からたち」なのだと、

ここへ来て、はじめて知りました。

 

「まろいまろい実」は、思っていたよりも大きかったです。

 

それともこの木が長い年月を経て成長して、

それとともに、実も大きくなったのかな。

他のからたちを知らないので、比べようがありませんが…。

 

柑橘系のよい香りがして、いかにも食べられそうなのだけど

残念ながら、渋み苦みがきつくて食用には適さないのだとか。

 

< からたちも秋はみのるよ >

 

とのことで、中秋の名月の夜も過ぎ、もうすっかり秋なのです。

 

 

数日前、

ふいにメールがポーンと届いて、

その日に会っていたあの方かな、と思いながら何気なく開くなり

 

とびこんできた

 

「ひさしぶり」

 

の文字。

 

 

久しぶりも久しぶり、おそらく5年位ぶりのメールで

よく考えると最後に会ったのはもう7〜8年は前になるかな、

という昔の仲間の一人からでした。

 

ここを読んでいるかどうかは知らない(十中八九読んでいないと思う)けれど、

とってもいいタイミングで届きましたよ、ありがとう。

 

何の前ぶりもない、こういうふいの知らせが

ひょっとして送り先を間違えてやしないかしら、と思えるくらいの気楽さで

各地そこここに散らばって暮らすこうした仲間の誰かから

まるで昨日の話の続きのように送られてくることは

実は、私の人生の中ではたまに起こることで。

 

メールを開ける一瞬前には全く予測していなかったことが

パッと飛び込んでくる驚きと嬉しさは

何度味わっても良いものだなぁと思えます。

 

 

5年ぶりでも

10年ぶりでも

変わらず、「あの時」が続いて行く

 

頻繁に出会って実際に色んな行動を一緒にする人たちとは別に、

もう一つの流れを別々に歩いていて

それでも要所要所でこんな風にふと集まる関係もある。

 

会ってしまえばそれはいつでも「昨日の続き」なのです。

 

 

私たちの時間感覚は、

本当は人との関係の数だけ別々にあるものなのかもしれない。

 

 

その人としか持ち得ない時間

 

というのが、誰の間にでもあるのですね。

 

 

それは、

その人との間でしか呼び覚まされない自分、とも言えるのかもしれません。

 

 

 

夕方になって、また涼しい風がふいてきました。

 

今日は月は見えるのかな。

 

 

みなさんどうぞ各々に

よい秋の時間をお過ごしください。

 

 

 

   末富 晶

 

 

「からたちの花」

ひさしぶりにききました。

 

www.youtube.com

 

 

 

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現代文人生けの日

 

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本日、記念すべき蘆花浅水荘での第一回現代文人生けの会。

おかげさまで無事に開催することができました。

 

 

華器を並べながら、そろえたお花を見ながら、

あらためて、こんな場所でゆっくりお花を生けることができるって

なんて贅沢なんだろう…という気持ち。

 

 

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文章を書くことは好きだけれど、

こればかりは文字で伝えることは出来ないと感じるものが

この場所にはいっぱい。

そしてもちろん、

「お花を生ける」ことの中にもいっぱい。

 

書くのが好きなのに、

おかしいけれど、

なぜか「文字で伝えられないことがある」ということがとても嬉しい。

 

自分たちの出来ることを

こうして直接出会って伝え合う、というのは

ふれあいや話し合いとはまた別の

人間同士の大切なコミュニケーションの形の一つなのだと思えます。

 

 

場所は文句なしに素晴らしいし、

集まってくださった方々も本当に素敵だし、

お花も生けたいし、で

時間があっという間すぎてまだまだやりたい気持ちだったけれど

 

ここからスタート。 

で、また色んな風に広がっていくといいなぁと思います。

 

 

ぽちゃんと落とした石が生む、

水の波紋のように…。

 

 

 

 

 

現代文人生けの会、次回はさてどんな雰囲気になるでしょうか。

 

第二回目も開催する予定です。

詳細はまた決まり次第ブログなどでお知らせさせていただきますね。

 

 

ひとまず今日は、ゆるりとよい夢を。

 

 

    末富 晶

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秋の開花期

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<いけばな・ピンクッション・ハラン> 末富晶  2017年9月

 

 

 

台風が去り、また静かな空模様。

 

昔からよく人々は心模様を空模様に例えてきたけれど、

なるほど、然り、と、

毎瞬ごと形を変える自分の心の内を眺めていると大きく頷けます。

 

「悩み」とか

「苦しみ」とか

「悲しみ」とか

 

凡そ「ネガティブ」とひとくくりで言われる感情は、

だいたいにして良いようには思われていないもので、

 

そうしたものを感じているときによくよく自分を観察してみると

だいたい何だか内側に向かってキューっと締め付けられているような、

辺りの風景ごと身体がちっちゃくちっちゃくなっていくような、

視界も狭くなっていくような

とにかく中へ中へ内へ内へと固まろうとする力を感じ、

アリ地獄に落ちまいとでもするような、それに抵抗する力があって

そのやり取りを頑張るから、ネガティブの内にいることは大変なのかもしれない、とも思えます。

 

「楽しい」とか

「嬉しい」とか

「ありがたい」とか

 

凡そ「ポジティブ」とくくられる感情はその逆で

 

外へ外へと広がって、

なんだかパーっと弾けて空も飛べそうなくらい彼方へと軽々行ける感覚がしたりもする。

 

その勢いに乗って色んなことが出来るのは、もちろん素直に考えて「とってもいいこと」であるのだろうけれど。

 

正直な所最近は、「ネガティブ」が悪いとか「ポジティブ」が良いとかいう風にはもう感じられなくなってきている感覚があります。

 

ネガティブの内へ内へと向かう力は、一見苦しいけれど、

この大地にまだしっかり自分で立ててもないうちに、自分の位置を見つけてもいないうちに、

ぱーっとお空まで行ってしまうよりは

苦しみながらあり地獄に向かっていって、その中へあえて進む方が、本当の「自己の探求」となる…という可能性もある。

 

穴に落ちてもがいていると思っていたら、奥へ奥へとのみこまれ、ぱっとぬけたその先は青空だった…ということも、あるのかもしれない。

 

外へ外へと向かう力と

内へ内へと向かう力は

きっと同じものなのだ。

 

「私」が「私」のことさえ、見失わなければ。

 

そんな風に、感じています。

 

大きな飛躍の前には屈伸が必要で、そのためにぐっと身を屈める時もあるし。

空を飛んでいるうちに傲慢になり、自分の位置を完全に間違えることもある。

 

さて、今「私」はどこにいるのか。

 

その問いかけが、実は一番大事なのかもしれません。

 

 

なんだなんだ秋の開花期かしらと思えるほど、色んなことが一気に花開こうとしていることを感じている今日この頃。

 

自分に言い聞かせるつもりで、書いております。

 

ネガティブもポジティブも引き連れて、

また一つ、次の扉を開けてみます。

 

 

    末富晶

 

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カタログの外の世界へ<蘆花浅水荘~案内係見習い~>

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  今月27日に開催する蘆花浅水荘での現代文人生けの会の際、出来れば自分で屋敷内を案内したいという思いから、

「研修中」という札を首から下げている気持ちで、この間実際の見学に訪れた方のご案内に後ろからついて行き、色々と勉強をさせていただきました。

 

< 現代文人生けの会についてはこちら↓の記事へどうぞ

9月27日(水)” 現代文人生け ”を始めます - 晴空便り >

 

 

もちろんこれまでも案内について回ったことは何度かあり、そもそも初めて訪れた際には当然のごとく自分自身が見学者で、現当主の山元さんに各部屋ごとに丁寧にご説明いただいたのですが。

自分でもご案内できるように、、、と、背筋を伸ばした状態で聞くと、色々と今までに見えなかった発見があります。

 

それにしても改めて、本当にこの山元春挙氏の別邸・蘆花浅水荘は素晴らしい場所です。

 

重要文化財となっている建物で、古いものはとてもたくさんあるけれど、実は100年ほどの年月しか経っていないにもかかわらず登録されているものはそれほど多くないのです」

と、その日の案内の中でのお話にありましたが、それはつまりこの蘆花浅水荘はただ古くて大きいだけの建物ではない、ということになるでしょう。

 

部屋の一つ一つ、引手の一つ一つ、床も、柱も、ふすまも、天井も、なにもかも…

 

どこを見ても、何を指さしても、「あ、これはね…」と話につながる。

私にはまだまだとてもその全ての経緯を覚えることはできていませんが、一つ一つの姿の存在感から、そのものたちが未だに当時の何かをひきつれて今ここに「生きている」気配を感じるのです。

 

もちろん色々と特殊な環境に身を置いている人にしかできないことで、その頃としても、珍しいことだったのかもしれませんが、 

現代のこの国に、こんな風に家を建てることの出来る人が一体どれくらいいるのだろう。

 

思わず、そんな風に思いを馳せてしまいます。

 

どの部屋も、部屋からの景色としての庭も、障子の桟の組まれ方一つをとっても、

ここではすべて、春挙さんの作品なのだと言えます。

 

他のどこにもない、同じものは二つとないものばかり。

それだけに魂がこもり、言葉で言いようのない雰囲気をその場にとどめていると感じられるのです。

 

カタログの中から、好きなものを選んで。

自分の好きなものを組み合わせて作った環境を、どれだけ個性的に彩ったとしても。

こんな風に一人の人間の命から生み出された物の持つ魅力には、どうしたってかなわない。

それどころか、実は同じ土俵に上がることさえできないのではないかと思えます。

 

少し前まで、

「どれだけカタログの中から自由に自分の好きなものを選べるか」

「どれだけ多くの選択肢を持ち、選んだ品々で自分の人生を「豊か」に彩るか」が重要で、

 

「たくさん選べる人ほど、幸せになれる」

 

そんな考えが多数派をしめる時代だったような気がします。

 

そのために、より選べる「選択肢」を増やすことがいいことだという風潮があり、

選択肢を増やせる条件として、お金や肩書やその他いろいろなステータスが絶対的に必要とされていたのではないでしょうか。

 

 そこからいくと私の通ってきた道である不登校児など、だからとっても最悪で、

「人生の序盤からいきなり選択肢を0にする」

ような行動だと思われていたのだろうなと今なら納得できます。

 

確かに、その中では学校に行かなくなってしまえばその後の道は絶たれたように見えるのです。

 

でももしも、どんな学校に行きたいか、どんな会社に行きたいか、どんな人と結婚したいかと、そんな風に「選ぶ」だけが人生ではないのなら。

それだけが、世界ではないのなら。

 

私たちはその選択肢を、選ぶだけでなく、つくり出すこともできる。

 

 

山元春挙氏が命を灯し、十年がかりで「蘆花浅水荘」の全貌をつくり上げたように。

 

 

少しずつでも、人生の舵を「つくり出す」方向に変えていけたなら。

行き詰り混迷を深めると言われる現代社会の中で、ともすれば道しるべの灯りをそれぞれの胸にともすことができるのではないか。

 

 

そんな淡い希望を、抱きもするのです。

 

 

…さて、どうしてこうなったのか。

ずいぶん話がそれました。

 

ともかくこの素晴らしい建物を前に、

「昔はよかったね」

云々と他人事のように言っている場合でないことは確かです。

 

今に生きる私たちへのメッセージと受け取って、

ありがたくもご縁のあったこの場所で、文人生けの会をさせていただきます。

 

よい日になるよう、あれこれと。

準備をすすめていきますね。

 

 

    末富晶

 

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「はやい」と「おそい」

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今朝は朝から雨がしとしと降っていて、

夏だということを忘れるくらい、なんだかとっても涼しいです。

 

久しぶりにゆっくり座って、書く事を決めぬままにこうしてブログを書いています。

 

このところもまた、色々なことが起こり。

いつものように喜んだり驚いたり時には考え込んだりの日々ですが、

自分の日常のリズムが、前とは何か違っていること、

起こることや見えることも、また違っていること、を少しずつ感じています。

 

リズムやテンポというものは「速い」と「遅い」の間のどの点かに収まるものだと思っていたけれど

例えば速くなって、速くなって、もっと速くなって、もうこれ以上は無理となった時、

ふとそれを「遅く」感じるようになる場所がある、という気がします。

 

遅く感じるようになった場所は、多分その次の段階の一番遅い点で。

おそらく気づかぬうちにもう、別の世界にワープしていて。

だから、一番速いのは、実は一番遅い場所でもある。

 

ずっと同じ世界の、同じルールでいくと思うから、人はきっと何年も先のことについて思い悩んだりできるのだろうけれど。

本当は、明日にでも、もう同じ世界にいるとは限らない。。。という生き方もある。

 

出口と思ったらまた入り口。

 

そんなことを繰り返し、入れ籠の中へ中へと進むように、もしくは螺旋階段を下へ下へと下り、上へ上へと上るように。

そんなふうに、みんな人生の旅をそれぞれのリズムで歩んでいるのかもしれない。

 

行くのが上でも下でも中でも外でも東西南北どこでも、

そんなことは実はあまり関係なくて。

 

生きていることはそれそのものでダンスを踊るようなものだから、

起きてきた出来事に、どんなステップを踏むか、どんなリズムでそれを受け取るかあるいはかわすか。

そんなあれこれを楽しめるようになった時、きっと人生の達人になる。

 

昔、山田洋次監督の「十五才学校4」という映画の制作に関わった時、

私は不登校の子が書いた自身の心の内として当時の自分の詩を提供したけれど

 

 

ほとんどの奴がバスに乗っても

ぼくだけは歩いてつっききるんだ

早く着くことなんて目的じゃないんだ

雲より遅くて十分さ

小鳥の小さな呟きを聞き逃したくないんだ

 

 

ここでも、「はやい」と「おそい」が知らない間に重要なこととして上げられているなぁと今更ながら思うのです。

 

これは、よく言われるように、そしてきっと当時の私自身もそう考えていたように

「ゆっくりのんびり行こうよ」

というメッセージなのではなくて。

 

「遅い」が「遅い」とは限らない、

ということを言っているのかもしれない。

 

 

自分のリズムを持つ人が、

そしてそれを

世界と照らし合わせながら常に変化させていける人が、

 

きっと軽やかなステップで自らの人生を踊ることができる。

 

 

流されずに。

 

留まらずに。

 

 はやいとおそい、の間を縫って。

 

 

 

亡くなった人たちがかえってくると言われるお盆の時期に、

ふと、そんなことを考える朝です。

 

 

    末富晶

 

 

 

○9月27日(水)

蘆花浅水荘にて現代文人生けの会を開催します。詳しくはこちらの記事へ↓

9月27日(水)” 現代文人生け ”を始めます - 晴空便り

 

 

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