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晴空便り

造形詩家・末富晶の晴れた空へつながるブログ

凪いだ海に、櫂を持って

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不登校児時代、おそらくほとんどの方々が見れば驚くほどに真っ白なスケジュールの日々を過ごしていました。

(不登校体験記はこちらからお読みいただけます)

 

 

朝起きて、その日何をするのかという予定が全く決まっていない。

 

そんな日がほとんどで、

朝日が窓から差し込み、ふとんからむくりと起き上がって、

さて、そんな状態でどんな風に、何年間もの繰り返される毎日を過ごしていたのか…。

 

羨ましいと思われるかもしれませんが、

意外なことに何にも縛られない環境は常に快適というわけでもなく。

 

本来やるべきことを、やらずにいるのではないか。

 

といった不安はいつも小さな身体の奥の方でくすぶっていたように思います。

 

 

忙しいとは、心を亡くす、ということなのだと

 

最近、よく聞くようになりました。

 

そして大抵の場合、それは良い意味では言われず、

心を亡くすのは悪い事だ、という前提がその言葉の前には共有されているようです。

 

 

全然忙しくない日々をかなりたっぷりと過ごしていた私が

偉そうなことは何も言えないことを承知で書くのですが、

 

忙しい、にはたぶん二種類くらい種類があって

 

どちらも心を亡くしているのだけれど

 

「目の前のことに集中して心を亡くしている状態」の忙しさであった場合

それは案外いいことなのではないか、と思ったりもするのです。

 

一つの作業にかかりっきりになり、はっと気づいたら思いがけず時間がものすごく経っていた、とか。

 

今日一日思いっきり動いて身体は疲れたけど、気持ちはなんだか壮快、とか。

 

忙しいけど、元気だわ、という状態。

 

 

全然忙しくない不登校児初期の頃、私にはありあまる時間があったけど、

その中でどんな風に振る舞えばよいか分からず、

泳ぎを知らぬまま大海に放り出されたような状態で、

 

「力をぬき、のんびりプカプカ浮かんで波の行くに任せればいいんだよ」

 

と言われても信じきれず、手や足をでたらめにバタつかせては溺れかかっているに近かったかもしれません。

 

それに比べて、

 

忙しいけど、元気だわ

 

の状態は、自らの意思で船を漕ぎ、波の間を渡っていっているのだと思うのです。

 

 

それを無意識に感じていたのかどうかは分かりませんが、子どもの頃はよく人が小舟に乗って大海に浮かぶ絵を描いていました。

 

空に光るただ一つの星をたよりに、櫂をもって進んでいく。

 

そんなイメージに、憧れに近いものを抱いていたのかもしれません。

 

 

落ち葉のように、浮かんで流れる人生も

きっと奥深く素敵なのだと思いますが。

 

櫂を持つこと、すなわち行きたい方向を明確にする意思を持ち、進んで行くことは

人間だからこそ、できることなのかなと思えます。

 

 

おかげさまで現在は、なにかと忙しい毎日です。

 

忙しいけど、元気だわ、の季節を過ごし

願わくば明るい意思を持って、進んでいけますように。

 

 

    末富 晶

 

 

 

4月30日(日)

京都パレスサイドホテルにて開催の「こ・こ・か・ら」さんに出展させていただきます。

心のままに花を生ける、晴空便りの生け花を体験していただけます。

私はほとんど会場にいると思いますので、よろしければふらりとお出でください。

詳しくはこちらへ↓

晴空便り「生け花の時間」

 

 

 

<晴空便りホームページ>

seikuudayori.wixsite.com

 

 

 

 

透明な景色の向こうに

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昨日はなんだか急に暖かくなって、冬の装いを残したままの部屋に、窓を通して明るい日差しが差し込む日となりました。

 

バスの後ろの席から、入学祝いの相談をするご夫婦の会話が聞こえてきて、

お孫さんの年齢は存じ上げないけれど、京都のどこかよい画材屋さんで画材を買って贈ろうと思うがどこがよいだろうか。。。といった微笑ましい内容に、なんだかほのぼのとした気持ちとなったのです。

 

これから町が桜で染まり、

新しい職場や学校に通って新しい出会いをする人もたくさんいる時期なのですね。

 

私はあいにく卒業とも入学ともあまり縁のない人生を過ごしてきましたが、

それでも何か、春には他の季節にない特別な美しさを感じます。

 

花は桜木 人は武士

 

とは、よく聞きますが。

 

 

生と死が同じ空間に同時に存在するような。

 

いつもの景色がふと透明になり、その奥にもう一つの見えない世界が立ち現れるような。

 

 

美しい春爛漫の景色の中に、けれど同時に、静かなもう一つの世界が透けて見える。

 

 

私たちにはそれを感知する力があるのだと、いっそう強く知らせてくれる季節なのかもしれません。

 

 

 

言葉の意味よりも、その声の響きを。

 

人の姿形よりも、その影の揺れを。

 

どの花びらの色よりも、よりいっそう深く、花と花との間にある空間を。

 

見ることのできる、人でありたい。

 

 

それはいつもの世界と真逆の視点だから。

 

現代社会を生きる上で、そんな必要はない、と言われてしまうかもしれないのだけど。

 

 

自分が今いるこの場所と、自分が今持つこの感覚が、

ともすれば全てだと思いがちなこのうぬぼれを、

そのもう一つの世界の存在はそっと諭してくれる。

 

そんな気がするのです。

 

 

世界はまだまだ、未知で満ちていて。

 

そのことが、今の私にはとても嬉しい。

 

 

 

ひと時の春。

 

味わいながら、まいりましょう。

 

 

 

   末富 晶

 

 

 

4月30日(日)

京都パレスサイドホテルにて開催の「こ・こ・か・ら」さんに出展させていただきます。

心のままに花を生ける、晴空便りの生け花を体験していただけます。

私はほとんど会場にいると思いますので、よろしければふらりとお出でください。

詳しくはこちらへ↓

晴空便り「生け花の時間」

 

<晴空便りホームページ>

 

seikuudayori.wixsite.com

 

 

 

 

 

 

 

 

 

春うらら

 

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外を歩けばウグイスの鳴き声が聞こえ、

日差しは明るく、

町のいたる所に花粉症らしきマスク姿の方々も増えて、

ああ、すっかり春なのだと思える今日この頃です。

 

冬眠していたわけでもないのに

「さて、そろそろ動き出そうか」

と、わけもなく、あくびと共に伸びをしたい気分になります。

 

 

年明けからこの春に向けて、自分が意図していたものもそうでないものも色々と始まっています。

はじまりはじまり…と、幕を開けたそれぞれの物語がどんな風に展開していくのか。

演者と観客と監督と、できれば三人くらいの「私」を置いて、それぞれの立場から楽しんでみたいものです。

 

 

この間、地元の情報誌に年齢についての記事が載っていたのですが。

それによると、30代くらい以上の人の大部分が自分の内面の年齢は実年齢より下であると感じているということです。

 

年齢が上がれば上がるほど、その傾向は顕著に現れるらしいのですが。

 

自分がもう「30だなんて」「40だなんて」「50だなんて」「60だなんて」「70だなんて」…ほとんどの人が、「信じられない」気持ちなのだといいます。

 

私もそうかな、と自分を振り返ってみたところ。

 

確かに、この前まで十代だった気がしなくもないですが。

 

だからといって「34」という年齢に「えーっ」という思いもなく。

年上の方々には「それはまだ若くて身体に不調がないからよ」と言ってもらうのかもしれませんが、とにかく今の所、別に嫌な気持ちになる要素はないなぁというところです。

 

年齢はたぶん、「性別」とか「職業」とか「国籍」と似ていて。

 

その人自身のためというよりも、その人以外の人がその人の輪郭をなんとなく掴むために最初に必要となる項目の一つなのだろうと思います。

 

10代と、20代と、30代とでは。

たとえ私が何も変わらなくても、まわりの反応や言葉遣い、対応のされ方が変わってくる。

人との関わりはダンスのようなものだから、出される反応によってこちらも動きを変えねばならず、そのことを人は「年齢を実感する」と言うのかもしれないなぁと思ったり。

 

でも「信じられない」という誰もが知るように、「年齢」はその人の内面を知る基準には決してなり得ない。

 

重要だと思われている「性別」も「職業」も「国籍」も「年齢」も。

 

「その人自身」…彼や彼女がどんな風にこれまでを生きて、どんなことを大切にして、どのように世界を感じているか…といったようなことには実はほとんど何の関係もないというこの事実。

 

 

現代を生きていると、こんな当たり前のことを知るに付けて、いちいち驚愕してしまいます。

 

 

 

 うららかな春。

どうぞみなさん、すてきな時間をお過ごしください。

 

 

   末富晶

 

 

4月30日(日)

京都パレスサイドホテルにて開催の「こ・こ・か・ら」さんに出展させていただきます。

心のままに花を生ける、晴空便りの生け花を体験していただけます。

私はほとんど会場にいると思いますので、よろしければふらりとお出でください。

詳しくはこちらへ↓

晴空便り「生け花の時間」

 

 

<晴空便りホームページ>

seikuudayori.wixsite.com

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

詩を書く人

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パリやミラノでの海外華展をきっかけに生け花と詩を合わせた表現をするようになり、

それまでノートにただ書き留めるのみだった言葉たちが、

アクリル板に乗って形を持ち空間に浮かぶのを見るようになりました。

 

 

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<写真・2016年 華道壮風会 東京展 出展作品>→詳しくはこちらの記事へ

 

 

 

詩を書くようになったのは何歳の時の話なのか。

 

正確には覚えていないけれど。

14か15の頃にはもう、言葉を書きためたノートを数冊持っていたような気がします。

 

世の中にもし、

詩人となる要素を持ち合わせている人と、持ち合わせていない人がいるとするなら

私は明らかに前者なのでしょう。

 

毎日何かを書いているわけでは決してないのだけれど。

 

人生のある時々、ふと思い立ったように、何冊も言葉がノートを埋める時期があります。

 

普段の自分がいるスペースとは別の空間から、

こう言っては何だか怪しい響きがするけれど

その言葉たちはふと「降りて」くる。

 

私にとってそれはごく自然なことで。

「あ、きた」と思えば書くだけのことで。

書いたまま忘れてしまったりもして。

 

そしてとても不思議なことなのだけど、

その10年後、20年後の自分がまた、その時の言葉たちに色んな気づきをもたらされたりもする。

 

「こんな言葉を書いていたのか…」

 

と、時空を超えて届いた過去からのメッセージに

驚かされることもしばしばあるのです。

 

それが誰か他の人のためにもなる言葉なのか、

その辺りのことはまだよく分からないのだけど。

 

少なくとも私は私のために、

時折こうして、言葉をためるのだと思うのです。

 

 

 

「ポエム」とか「ポエマーだね」とか

この国で普通に言われる時、

あまりいい意味じゃないことが多いのはどうしてなのか。

 

 

音楽と同じくらいに身近な場所に

 

本当は詩も、存在していると思うけれど。

 

 

詩人の要素を持つ方は、

どうぞたった一人でも、

その言葉を書きとめて欲しい。

 

たとえ他の誰の目に触れることがなくとも、

書きとめたその小さな一文字ずつの積み重ねが

少しずつ世界を美しくする。

 

 

そんな気がするのです。

 

 

 

   末富晶

<晴空便りホームページ>

seikuudayori.wixsite.com

 

 

 

 

 

 

 

 

あの頃の私へ

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 <生け花(フリージア・ハラン) 末富晶 2017年2月>

 

 

34才になりました。

 

 

人に説明できる名を持つような何者にもなっていないのにおかしな話かもしれませんが、

ごく純粋に、「よくぞここまで」という思いがします。

 

普段、あまりそういうことはないのですが

この間改めて不登校児時代のことを人に伝えるための文章を考えていて、ふいにボロボロ泣けてきました。

 

辛かった過去を思い出した…というのとはちょっと違います。

 

あの頃はあの頃で、思い悩むことももちろんあったし常に未来が希望に満ちあふれていたわけでもありませんが、逆に言えば幸運にはしゃぐこともあったし常に未来を悲観していたわけでもないのです。

 

気持ちの揺れはシーソーのように、あっちに行ったりこっちに行ったり。

 

ただそうして大きな波に揺られながら、心の奥底のどこかに

「こうなったらいいな」という未来の姿への希望と、

「こうなったらどうしよう」という未来の姿への不安が同時に存在していました。

 

今の私はたぶん、そのどちらとも似ても似つかない姿をしていると思います。

 

でも、

私は今、そのことが嬉しい。

 

あの頃の自分が知らなかった私になっていることが、静かに嬉しい。

 

あの時、10才にして学校に行かなくなり、世間のルールから外れてしまったと感じていた私は、心の底から自分の選択に全肯定してくれる人を探していたけれど。

 

求めていたその相手は、実は未来の自分だったのだ、と、そんな気がして泣けたのかもしれません。

 

私は大人の私から、「あなたはそれでいい」と言われたかった。

 

 

そして今、世間から見た自分ではなく、自分から見た自分の「私」として、あの頃の私にはっきりとそう言ってあげられる。

私にとっては今、それは本当に嬉しいことなのです。

 

 

 

ここからまた、新しい一年。

想像の未来の枠を、ひらりと明るく越えていけますように。

 

 

 

 

   末富晶

 

<晴空便りホームページ>

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一つの井戸を掘るように

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二月は私の誕生月でもあるからか、やっぱり何か特別な感じがします。

 

一月一日はそれはそれで皆で新年を祝うけれど、

私にとって二月は一人、これまでの一年を振り返り新たな年へ思いを馳せる静かな月…。

 

今年はその二月もあっという間にめぐってきて、

めまぐるしい流れの中、四日目にしてやっと落ち着いて座る時を得たような気がします。

 

たくさんのことがありすぎて、何を書けばいいのか、もはや分からないくらい。

 

時を待っていたあちこちの種が春の日差しに一斉に芽を出すように、あれもこれもと、動いてきているのを感じます。

 

 

 

 「一つの井戸を掘りなさい」

 

 

とは、恐らく多くの方が耳にしている言葉で。

 

知識でも勉強でも修練でも、

あれこれと多くに手を出さず、自分がこれと思った場所で井戸を深く掘り進め、水脈を探しなさい。

 

と、簡単に言えばそういうことなのだろうと思うのですが。

 

 

私は長い間、そんな風に生きているつもりは全くありませんでした。

 

文章を書くのが好きで。

生け花も好きで。

フランス語もやりだしたり。

他にもあれやこれや。

 

自分の人生の軸と感じるものが一つではなく、一つ一つは関係のない場所でちらばっていて。

 

まとまりようのないものたちを、しかしどれも手放せず、

一つの場所に井戸を掘ることが出来ない人生なのだと、なんとなく思っていたようなところがあるのです。

 

 

でもここへ来て、それは違ったのだな、と、まだ仄かながら見える兆しにはっきりと感じることが出来るようになりました。

 

バラバラに見えていたその別々の「ずっとやってきた事」は、本当は「一つのこと」だった。

 そういうことに、気づきはじめたのです。

 

 

たぶん私は今まで、ずっと「準備」をしていたから。

それはそれで必要なことだったけれど、動き出さずに一人準備しているうちには、きっとこのことは見えなかったのだと思います。

 

私が別々のものと考えてきたことたちは、すべて、ひとつながりの命の上にあるものだったということ。

 

花弁と、茎と、葉と、トゲと、

 

そのどれがなくても、バラの花にはならないように。

 

 

おいしい水が、たくさんの種類の野菜と共に、火の力で煮込んではじめて

スープとなるように。

 

 

私がこれまでやってきた、大事に思う一つ一つの事柄は、

この先何かをつくるための「材料」となる基盤のようなものだったのかもしれない。

 

そのつくりたいものが、今すでに存在する名前のついたものであれば

目標とするものに迷わず進んでいる、という自信も持てようものですが。

 

つくろうとするものが、全く新しいか…少なくともここ100年くらい見かけていない、とか

その人独自のものである、とかいう場合、

途中までは一体何の材料を集めているのか、これでつくれるものなどあるのか、きっと自分でも見えないのだろうと思います。

 

でもきっと、この世に生を受けた一人一人、人生の中でその人のつくるものは違っていて。

 

集めるものも、生み出すタイミングも、本当にそれぞれで。

ただの一人も、同じということはなくて。

 

それぞれの命を、どう生かしていくか。

 

見つけたものたちを合わせて、どんな風に、新しい命の動きをつくっていくのか。

 

 

その違いを見ることが、もしかしたら、この世に生きる上で最高に楽しいことの一つなのかもしれない。

 

花や、

水や、

土や、

言葉や、

音楽や、

 

その他無限に連なる、この地球上の、そのままでも「生きている」ものたちを

 

だけど人はきっと、自らの手で更なる命へと「生かす」ことができる。

 

 

だからそのままでもすでに美しい花々を、

水盤の上に新たな命として再び「生かす」華道のことを、

古くから人は「生け花」と呼んだのだと。

 

子どもの頃、生け花を初めた時に習ったはずのそのことが、

どんなに真理をついた言葉だったかと、

今更ながら思い返されます。

 

 

これまで出会った、そしてこれから出会う、様々なものたちを

願わくば一つずつ手に取って。

 

一つの井戸を掘るように、生かしていけますように。

 

 

 

    末富晶

 

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春を待つ間に

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<生け花(アオモジ・チューリップ・レモンリーフ)

・末富晶 2017年1月>

 

 

私の住む地域では、この冬は雪があまり降らなかったものだから、

先週2日間ほどの寒波の折の積雪にみんな少なからず気持ちが高ぶったようで、私の見ているSNSのフィールドは友人知人の載せる雪景色で一時的に真っ白になりました。

 

思わず「私も…!」という気持ちになりそうだったけれど、

風邪をひいていたのでおとなしく窓越しに見るにとどめ…。

 

 

きっと、雪がもっと身近な地域の方々は、こんな風にたくさんの人が一気に雪景色の写真を載せる場面に立ち会うことはないだろうし

同じ日の同じ時間にSNSを眺めていても、その内容は全然違うものなのだろうなぁと想像したりしていました。

 

私たちは色んな意味で、同じような感じの人々と集まる傾向にあると思うので。

 

たとえ住んでいる地域にばらつきがあったとしても、

SNSで流れてくる情報には自然と偏りがあり、多少濃淡の差こそあれ、おおかた自分好みのものになっていることでしょう。

 

たぶん、ネットの画面から顔を上げて見える「現実」も基本的には同じようなことで。

 

自分好みの「偏り」を、各々に「普通」だと思って生きている。

 

もし他の人の「現実」を覗くことができたなら、想像以上の「違い」に驚愕するかもしれませんね。

あー、よかった…のかもしれません。そんなことできなくて。

 

 

写真の生け花は、一昨日、華道壮風会の教室にて(私にとっての)今年初稽古で生けたものです。

 

めずらしく、たっぷりと植物たちに入ってもらいました。

 

これまでしばらくの間、華材の数の少ないシンプルな作品が続いていたのですが、

こうしてたくさん生けてみると、これはこれで、楽しくなってくる。

チューリップを眺めていると、もうすぐ春だなぁと心躍る。

 

 

今年はまた更に進んで新しい場所ででも、晴空便りの生け花の時間、つくっていきたいと思っています。

 

詳細は近いうちにまた。

 

春を待つ間に、十分あたたかくして、次にすることを準備しておきます。

 

 

 

   末富晶

 

<晴空便りホームページ>

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