晴空便り

造形詩家・末富晶の晴れた空へつながるブログ

てのひらからこぼれ落ちる日々に

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虹色のストーブが届きました。

 

 

丸いフォルムの…正式には何というのでしょう、

コンセントはなく、マッチでも火がつけられる、

上にやかんを置いてお湯が沸かせるタイプの灯油ストーブです。

 

虹色の炎になるストーブが欲しい、

と思ったことは未だかつてなかったのですが。

 

私は自分の部屋に普段からあまりいないこともあり、

冬はいつも家の中であまっているストーブを使わせてもらっており、

結果的に古いものとなって

今年の冬は巡り巡ってやってきた年代物のこれと同じ形の黒いストーブ、炎はもちろん普通の暖かなオレンジ色に見えるものを使わせてもらっていました。

 

ところがこれが古いために煤が多く出て。

 

ある日、朝起きた時に鼻の穴の中が黒くなっているのに気づいてびっくりし、

これは健康に悪いだろうと、急遽別のストーブを探すこととなったのです。

 

芯を代えればいいのではと思ったのだけど、

なんだかこのストーブにいたってはそれも不可能とのこと。

一番使わない部屋に引退してもらうこととして、

いつも通り動きの遅い私に代わって家族が見つけてきてくれたのがこの虹色の炎のストーブでした。

 

前と同じ、普通の灯油ストーブを買いに行ってくれたのだけど

ファンヒーターではない、この丸いタイプで同じものはもうなく、

あるのは虹色タイプだけです、と言われたのだとか。

 

「虹色のでもいい?」

 

と聞かれた時にはそれがどんな意味なのか想像するのが難しく、

ぎらぎらした電飾が光ったらどうしようと恐れもしたのですが

届いてみればなるほど、虹色の意味は外側の塗料のことでも施された電球でもなく、

中側のガラスの色によって、ストーブの炎がゆらゆらと虹の輪を作る、ということなのでした。

 

これが、夜に電気を消してこのストーブの灯りだけにしてみると

思いの外きれいで。

 

自分で選んだわけではないのに

ぴったりのものが来てくれたなと嬉しくなり、

この部屋に帰った時には

夜ごと好きな音楽と共にぼんやり炎を眺める至福の時を過ごしています。

 

 

自分がずっと欲しかったものが手に入る、

という瞬間ももちろん、嬉しいものだけど。

 

 

こんな風に、思いもしなかった素敵なものが届けられる瞬間の方が

私はより幸福を感じる体質のようです。

 

自分の想像の外側から来るものの方が、

自分の頭で選んだものよりも

なぜだかより自分にぴったりであった、ということは、よくあることで。

 

だから、気に入って買ったわけでも柄が好きで選んだわけでもない祖母や母の着物を引き継いでそのよいところを見つけていくことや、

誰かからもう着なくなった服をいただいてそれを着させてもらったりすることが、

私にとっては自分の枠外から来る大きな贈り物であり、

より好みな物との出会い方と言えるかもしれません。

 

 

 思えば人との出会いはいつも、もっと分かりやすく「考えの外」からやってきて。

 

今日、きっとこんな人と会おう。

 

と詳細に決めて、その通りにできる人などこの世におらず。

 

だからこそ、その意外性と突然のタイミングが人と人との間で重なった時、

何かしらの得難い瞬間が生まれるのかもしれない。

 

生きていて、出会うこと。

 

それはもうそれだけで、どれだけ大きな奇跡なのだ、と思う日々。

 

あつめてもあつめても、

てのひらからポロポロとこぼれてしまう、

とても拾いきれない瞬間を、

 

それでも愛しく、記憶していこうと思います。

 

 

 

寒い日が続いていますが、

みなさんどうぞ、お身体ご自愛ください。

 

 

 

    末富 晶

 

<晴空便りホームページ>

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2018年のはじまり

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  <生け花・アイリス・アオモジ・ポリシャス 末富晶>

 

 

三が日が終わり、お正月独特の空気も薄れ、

寂しいような、ほっとするような…

 

今日ぐらいからようやく、本当の、今年のはじまりという気分になってきます。

 

毎年、その年の抱負を語ったり、その時持っている夢について考えたりするけれど。

 

年が終わる頃に答え合わせのように思い返してみれば、

その通りになったこともあるにはあるけれど、

その詳細たるや

だいたいもう、その時考えていた状態とは全く別世界の、

そんな単純な未来予想では追いつかないほどの

ありえないことが起こっていたりする。

 

子どもの頃に願ってきた

「こんな大人でありたい」という夢は

 

私の場合、ものすごく詳細に叶っている部分と全くもって叶っていない部分が真っ二つに分かれ、

いっそ潔いほどなのだけど。

 

叶っていないことは、今から思えば

自分の本当の願いというよりは

誰かから教えられた「こうあるべき」という見本の姿なのかも知れず、

それならもういいか、と安堵とともに諦められるようにもなった。

 

10才のころから不登校で、社会のあるべき姿からはとっくの昔に逸脱している私でも

時々、常識やこうあるべきの基準から自分が外れていると感じた時に

今更のように心痛める瞬間もなんと(自分でも驚くことに)まだあるのだけれど。

 

これはもうきっと、自分一人だけの感情ではなくて

多くの人が共通で取り組んでいかなくてはならない課題のようなものなのだ、

と思うようになってきました。

 

その課題の一端を、この時代に生きる人の一人として誇らしく担って、

新年にあたり、気持ちを新たに進んでいこうと思います。

 

たくさんの素晴らしい事が起こる年でありますように。

 

 

みなさまどうぞ、本年もよろしくお願い致します。

 

 

 

    末富 晶

 

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よいお年を

 

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<華道壮風会・現代生け花 2017年12月 ギャラリー島田 出展作品>

 

「 閑座 」

 

波のない夜にじたばたしたとて どこへ行けるものでもない

 

月のない夜にきょろきょろしたとて 何が見えるものでもない

 

 

波はどこからやって来る

光はいつ現れる

 

 

風のある夜は畳に座り じっと静かに待つのみで

 

本当の私をつくる日は あるいはそうした時なのだ

 

 

 

 

 

 

今年最後の作品、

神戸のギャラリー島田にて、無事展示させていただきました。

 

華道壮風会の現代生け花・現代美術展の中の一作品に加えていただき、

今年の締めくくりにふさわしい、とても素晴らしく、実りある期間を作品と共に過ごさせていただきました。

みなさん、本当にありがとうございます。

 

 

仕込みも入れて5日間のうちのほぼ毎日、片道電車で一時間ちょっとほどの距離を通ったのですが、

その日によって行きや帰りの時間帯が変わり、

それにともなって乗客の数や様子も変わり、

電車に乗っている人たちの様子を目にするだけでもただ通り過ぎるにとどまらない色々と考えさせられる光景に出会いました。

 

冬の日暮れは早いとはいえ、まだ夕方の暗くなったばかりの時刻には

小さな子どもさんを連れたお母さんたちのグループも乗っていて。

4~5歳くらいに思える子どもたちはみんな一緒に座りたがるものだから

横ならびの電車の席の二人分のスペースに三人くらいできゅっと座って。

わいわい楽しそうにさわぐし、当たり前といっていいのかもしれないけど全くじっとしていない。

 

その中の一人の足でもあたったのか、

それとも騒ぐのが耳障りだったのか、

そちらにずっと注目していたわけではなかったので分からないのだけれど、

その子たちのすぐ隣に座っていた中年男性が

あるタイミングでとても煩わしそうに

その子たちにむかって唸るような恐い声を放った。

 

一瞬、辺りがシンとして。

子どもたちも空気を感じ取ってきゅっと縮こまって話さなくなり、

その前に立っていたお母さんたちは顔を青くして

早く目的の駅に着くようにととにかく待っている風だった。

 

それから2つくらい先の駅で、

子どもたちも、男性も、みんな一緒に降りていき

車内はまた別の空気に入れ替わったけれど。

 

同じ光景を見ていた当事者ではない私のような人たちの中には

いろいろな思いを持ってその小さな一つの出来事のことを思い返していた人もいたかもしれない。

 

男性に向かって、子どもにあんな風に怒鳴るなんて…とひどく感じる人もいるだろうし、

子どもたちの母親に向かって、もうすこし注意して行儀よくさせるべきだ…と考えていた人もいるだろう。

 

でも男性はもしかしたらすごく疲れてやっと座れたところだったのかもしれないし、

お母さんたちがどんなに頑張っても、あの子たちはやっぱりああだったかもしれない。

 

私はと言えば、

あの男性がこの先老人になって、

あの子たちの誰かはお医者さんとか介護士とかになっていて、

数十年ぶりに再会し、男性があの子たちの世話になる…という日が来ないとも限らないな。

 

と想像していた。

 

同じ時刻に同じ電車の同じシートに隣り合わせで座る確率はどれほどのものか正確には知らないけれど、

ともかくとても、縁があるのだろうから。

 

 

 

 

毎年そう思っている気がするけれど、今年は本当に色々なことがあり、

おかげさまで来年へと続く種もたくさん蒔かれた一年となりました。

 

来る2018年が、みなさまにとって素晴らしい年でありますように。

 

どうぞよい年をお迎えください。

 

 

   末富 晶

 

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トランスフォーメーション

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 <いけばな・ストレリチアフウセントウワタ・ポリシャス> 末富晶 11月

 

 

ストーブに火を入れて、暖かな部屋で文章が書ける幸せ。

 

だんだんと、冬が近づいてきました。

 

またまたお久しぶりの晴空便りですが、皆さんお元気でお過ごしでしょうか。

 

 

大人になった時こんな風になってたらいいな、と私が小学生くらいの時にあこがれていたのは

「家にいて、犬を飼っていて、文章を書いて暮らしている」

という漠然としたイメージでした。

 

色々と予想外なことも多いけれど、

全体的に見ればなんとなくそのとおりになっている。

 

将来の夢は何か、という質問は一般的なものだけれど。

 

普通はそれには、なりたい職業などをこたえることになっていて。

 

世の中にどんな仕事があるのかさえまだよく知らないうちには、それにこたえるのが難しかったけれど。

 

たくさん外国を旅したい、という人もいれば。

私のように、家にいるのが好き、という人もいて。

 

そんなことなら多分、小さな頃から「好きなムード」は変わっていないのかな、とも思えます。

 

 

このところ、過去のことを思い出しながら文章を書くことが日常になっていて。

主に不登校児となった小学生頃から十代にかけての自分に寄り添う日々が続いています。

 

忘れていたこと、印象深くずっと記憶に残っていること、色々あるけれど。

 

注意深く探っていけばいくほど、昔からあるはずの「本来の私」の姿が、雲を掴むように見えなくなっていく。

 

一定して一人の個人であった…というのは、私の幻想なのかしら、と思えるほど一貫性があるようでないことに気づくのです。

 

今がこんな風だから、未来はきっとこうなるだろう、と予測するのと同じように。

今がこんな風だから、過去はきっとこうだっただろう、と少なからず今を基準に過去を考えている。

 

実際にはずっと同じ「私」というものなど存在せず、

あるのは変わり続けている一つの流れだけなのかもしれません。

 

 

昨日までずっと「そう」だったからといって、

今日も同じでなければならない…ということはない。

 

変容を繰り返し、今をよくしていくことが

きっと未来だけでなく、過去も素晴らしく変えていく。

 

未来と過去の、両方が

常に「今」によって書き換えられているのかな、と思えます。

 

 

なんだか雨の日に書くことが多い晴空便り。

 

今日もしとしと、雨音を聞きながら。

 

 

どうぞ素敵な紅葉の日々をお過ごしください。

 

 

   末富晶 

 

 

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雨の日に

 

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<いけばな・バラ・雪柳> 末富晶 2017年10月

 

 

雨の日が続きます。

 

聞けば、台風も来ているのだとか。

10月の後半になってまだ台風の名を耳にすることは珍しい気がしますが、どうでしょう。

 

いつだったか、雨の日にバスに乗っていて。

一緒に乗っていた方が

「今日は山が見えないね」

とおっしゃった。

 

つられて同じ場所に目線をやると、

なるほどいつもはきれいに見えている山並みが

白くかすんで見えなくなっていて。

 

私はふと、何気なく

 

「天気が悪いからね」

 

と返したのですが。

 

その方はその言葉が気になったようで、

私に顔を向けると

 

「雨を悪い天気というのはおかしいよ」

 

そういうことに、気づかなければ。と、言ったのです。

 

なるほど、たしかに。本当だ。

油断している時ほど、こういうことを言いがちで。

晴れた日を天気が良い。

雨の日を天気が悪い。

そう呼ぶのは、現代日本においては別におかしなことじゃなく、全く「普通」のことなのだけど。

 

その普通はどこから来たのか。

一体だれが決めたのか。

本当にそうなのか。

 

そういう問いを通さずにただただ使われているままに採用すると、

知らないうちに、その奥にある考え方まで採用してしまうことになる。

 

言葉は便利なものだけど、

それは本当に、こわいことでもあるのだなと感じるのです。

 

つい口にのぼるそうした言葉の一つ一つを、感じられる人でいたい。

 

そして、そうしてみると

雨はやはり、別に悪くない。

 

雨よ、ごめん。

と、思うのです。

 

 

今日は靴の修理屋さんに行って、

前々からずっときれいにしたかったショートブーツを手入れしていただいたのですが、

本当に見違えるほど美しくピカピカの黒色をとりもどしてくれて

すごくすごく嬉しかったです。

 

見ていただいたところ、かかとがすり減っていて、底もちょっと外れかけていて、中敷きもダメになっていて。

 

実はそのブーツはある方からもう履かないからといただいたものなのですが、

いただいた時は新品に近い状態だったのに

私の元に来てからは毎年酷使され、ほぼ6年ほどでそんな状態となっていました。

 

かかとのゴムを代えてもらって、すり減ったところは詰め物でなおしてもらって、底も応急処置してもらって、中敷きも代えてもらって、

クリーニングと艶出ししてもらって。

 

くたびれてしわしわのグレーになってたブーツが、

シャキッと黒の自信をとりもどしてものの数十分でかえってきてくれました。

 

なんということ。

魔法か。と、言いたくなります。

 

予想以上に素敵になって戻ってきたブーツに足を入れると、

それはたしかに私の足に馴染んだブーツの感覚で、

新品を買った時よりもずっと嬉しく感じたのです。

 

「いい靴ですよ。手入れしながら、あと10年は十分履けます」

 

と、靴修理職人のお兄さん。

 

その言葉もとても、嬉しかった。

あと10年も、付き合える。

よい靴って、すごいのだな。

 

ぜひとも、手入れして大事に使って行こうと

心が明るくなったのです。

 

 

それにしても、

修理を待っている間スリッパをかりて店先の椅子に座っている時間も、なかなかに面白かった。

 

読みたい本があったので、何十分でもそこにいれると思ったのですが、

ちょうど人の出入りがある時間帯だったようで

私が店先に座っている間、いろんな方がいろんな事情でいろんな靴を持って間をおくことなく現れるので

そのやり取りの方に気が行って、実はあまり読む時間がありませんでした。

 

修理依頼の電話もいっぱい鳴るし、

すごいなー、流行ってるんだなーと

こうした種類のお店がにぎわっていることにほのかな光を感じていたのですが

 

ブーツが仕上がり、おそくなったと頭を下げるお兄さんに言わせると

「今待っていただいていた間が、ここ半年で一番の繁盛でした。びっくりしました。お待たせしてすみません」

とのこと。

 

こういう時、

自分がいた時にちょうどお店が流行った。と聞くのは、

なんだか嬉しい気がするのです。

 

 

さらに美しさに磨きをかけたブーツと共に、気持ちも新たに。

 

この冬も、どうぞよろしくお願いします。

 

 

 

   末富 晶

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からたちも秋はみのるよ

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現代文人生けの会場にさせていただいている蘆花浅水荘

 

 

お庭の奥に、大きなからたちの木があります。

 

これがあの童謡に歌われている「からたち」なのだと、

ここへ来て、はじめて知りました。

 

「まろいまろい実」は、思っていたよりも大きかったです。

 

それともこの木が長い年月を経て成長して、

それとともに、実も大きくなったのかな。

他のからたちを知らないので、比べようがありませんが…。

 

柑橘系のよい香りがして、いかにも食べられそうなのだけど

残念ながら、渋み苦みがきつくて食用には適さないのだとか。

 

< からたちも秋はみのるよ >

 

とのことで、中秋の名月の夜も過ぎ、もうすっかり秋なのです。

 

 

数日前、

ふいにメールがポーンと届いて、

その日に会っていたあの方かな、と思いながら何気なく開くなり

 

とびこんできた

 

「ひさしぶり」

 

の文字。

 

 

久しぶりも久しぶり、おそらく5年位ぶりのメールで

よく考えると最後に会ったのはもう7〜8年は前になるかな、

という昔の仲間の一人からでした。

 

ここを読んでいるかどうかは知らない(十中八九読んでいないと思う)けれど、

とってもいいタイミングで届きましたよ、ありがとう。

 

何の前ぶりもない、こういうふいの知らせが

ひょっとして送り先を間違えてやしないかしら、と思えるくらいの気楽さで

各地そこここに散らばって暮らすこうした仲間の誰かから

まるで昨日の話の続きのように送られてくることは

実は、私の人生の中ではたまに起こることで。

 

メールを開ける一瞬前には全く予測していなかったことが

パッと飛び込んでくる驚きと嬉しさは

何度味わっても良いものだなぁと思えます。

 

 

5年ぶりでも

10年ぶりでも

変わらず、「あの時」が続いて行く

 

頻繁に出会って実際に色んな行動を一緒にする人たちとは別に、

もう一つの流れを別々に歩いていて

それでも要所要所でこんな風にふと集まる関係もある。

 

会ってしまえばそれはいつでも「昨日の続き」なのです。

 

 

私たちの時間感覚は、

本当は人との関係の数だけ別々にあるものなのかもしれない。

 

 

その人としか持ち得ない時間

 

というのが、誰の間にでもあるのですね。

 

 

それは、

その人との間でしか呼び覚まされない自分、とも言えるのかもしれません。

 

 

 

夕方になって、また涼しい風がふいてきました。

 

今日は月は見えるのかな。

 

 

みなさんどうぞ各々に

よい秋の時間をお過ごしください。

 

 

 

   末富 晶

 

 

「からたちの花」

ひさしぶりにききました。

 

www.youtube.com

 

 

 

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現代文人生けの日

 

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本日、記念すべき蘆花浅水荘での第一回現代文人生けの会。

おかげさまで無事に開催することができました。

 

 

華器を並べながら、そろえたお花を見ながら、

あらためて、こんな場所でゆっくりお花を生けることができるって

なんて贅沢なんだろう…という気持ち。

 

 

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文章を書くことは好きだけれど、

こればかりは文字で伝えることは出来ないと感じるものが

この場所にはいっぱい。

そしてもちろん、

「お花を生ける」ことの中にもいっぱい。

 

書くのが好きなのに、

おかしいけれど、

なぜか「文字で伝えられないことがある」ということがとても嬉しい。

 

自分たちの出来ることを

こうして直接出会って伝え合う、というのは

ふれあいや話し合いとはまた別の

人間同士の大切なコミュニケーションの形の一つなのだと思えます。

 

 

場所は文句なしに素晴らしいし、

集まってくださった方々も本当に素敵だし、

お花も生けたいし、で

時間があっという間すぎてまだまだやりたい気持ちだったけれど

 

ここからスタート。 

で、また色んな風に広がっていくといいなぁと思います。

 

 

ぽちゃんと落とした石が生む、

水の波紋のように…。

 

 

 

 

 

現代文人生けの会、次回はさてどんな雰囲気になるでしょうか。

 

第二回目も開催する予定です。

詳細はまた決まり次第ブログなどでお知らせさせていただきますね。

 

 

ひとまず今日は、ゆるりとよい夢を。

 

 

    末富 晶

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