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晴空便り

造形詩家・末富晶の晴れた空へつながるブログ

100年の足音

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<生け花(ウリバカエデ・カンパニュラ)末富晶 2017年4月>

 

 

5月になりました。

 

暖かくなりましたね…を通り過ぎ、すっかり汗ばむような陽気。

 

昨日は早くも夏を感じさせる日差しの中で、子ども御輿がわっしょい行くのに出くわしたり、川辺でお昼をいただいたりと、5月らしい一日を過ごさせていただきました。

 

 

最近、様々なことをきっかけに100年くらい前の人々や文化について考える機会が多くなっています。

 

長い人類の歴史の中で100年はきっととても短く、そこだけに思いを馳せるのは不完全だし中途半端なのかもしれませんが。

 

100年前というと、私の曾祖父たちが過ごした時代ということもあり、「自分が直接その時を生きた人からの話を聞いたことがない時代」として、一番近いところにある気がしてなんだか不思議な距離感の親しみを感じるのです。

 

よく聞く、「昔は良かった」の言葉をただ単純に使うのは私も好きではないし、

 

「昔」ではなく「今」や「未来」を見た方がいい

 

という言葉も、そうだなぁとも思うのですが。

 

それでもやはり、少しずつその時代の人についての文章を読むにつれ、写真を見るにつれ、つくったものたちに出会うにつれ、知るにつれ。

 

どうしてもどうしても、何か得体の知れない魅力を感じてしまうのも本当で。

 

それが何なんだろうということを、このところずっと考えていました。

 

 

 

 

思うに私はきっと、「昔」が好きなわけではなくて。

 

ただ、いつの世も等しく存在する「不変のもの」をそこに見つけたと感じるときに、魂の震える感覚がするのです。

 

 

人の世のルールは刻一刻と変わるけれど。

 

「本当に大事なこと」は、きっとそう大きく変わらない。

 

 

この100年で急速にたくさんの変化があり、今はもう失ってしまったと思えるものたちも多いのだけど。

 

自分の中にまだ、その感覚に触れて涙する心があるのだということは、一つの希望のように思えるのかもしれません。

 

 

美しさ、とは、そこに繋がるための一つの鍵なのではないか、という気がします。

 

お金の単位の「円」ではなくて、

長さの単位の「センチ」ではなくて、

もちろん重さの「グラム」でもなくて。

 

道具ではかることができない、数値化できないもの。

 

尺度を持たない「美しさ」に、きっと秘密が隠されている。

 

 

そんなことを思いながら。

 

空間の美を良しとする数々の芸術に、改めて敬意を抱くのです。

 

 

この地のそこここに残されているその「美」の扉に、できるだけ多く触れて、できれば自分でもつくって開いて。

 

 

そんなふうに、生きていければ、きっといい。

 

 

 

この晴空便りでの色々な事柄が、そこにつながるものでありますように。

 

 

 

 新緑の5月。

 

すてきな日々をお過ごしください。

 

 

 

 

 

  末富晶

 

 

<晴空便りホームページ>

seikuudayori.wixsite.com

 

 

 

 

 

 

 

 

晴空便りの生け花

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<生け花(庭のお花たち)末富晶・2017年4月 蘆花浅水荘にて> 

 

 

さて、明日は京都パレスサイドホテルでの「こ・こ・か・ら」さんのイベントに出展させていただく日です。

毎回、「晴空便りの生け花の時間」として、ゆっくりと小さな生け花を楽しんでいただけるスペースをつくっています。もしよろしければ、どうぞふらりとお立ち寄りください。詳細はこちら↓へ…

<こ・こ・か・らさんのホームページはこちら>

 

お花を用意して。

華器その他をスーツケースにつめて。

こまごまとした準備も、それはそれで楽しい時間。

 

生け花を通して色んな方と交流するようになって早一年。

少しずつですが、自分なりの「生け花の空間」の形が見えてきたような気がします。

 

一年ちょっと前、晴空便りとして生け花の教室を作ろうと考えていた時、どうしても

「既存の形」

というものが大きく頭の中にあって、それに合わせなくてはと色々空回りもしたのです。

 

毎月決まった曜日に華道教室を開かなければいけない。とか。

華材は枝物(木)と花をバランスよく揃えなくてはいけない。とか。

○○会みたいなグループにして入会金をいただく形にするべきなのだろうか。とか。

 

そう考えるとなんだか疲れて進めなくなって、進めないことを努力できないなぁと勘違いしそうになったりもしたのですが。

 

思うに、進めないということは、「そっちじゃないよ」というどこかからのサインなのでしょう。

最近では、無理にそういう「これまでにあった形」に合わせてスタートさせなくて良かったなぁと思える出来事が色々と起こっているのです。

 

ある方から先日、おうちでお友達を集めて生け花と親しむ会を持てたらいいなという相談をいただいたのですが。

 

その内容をまとめると、

 

つまり、そんなに大げさな「華器」も「華材」も必要なく。

 

ただ好きな入れ物に、庭や野原で好きなようにつんできたお花や、なんなら台所の野菜などの身近な植物を生けてみて。

 

いつもの暮らしの中で、植物ともっと親しくなりたい。

 

それを、みんなでおしゃべりしながら楽しくできたらきっと素敵だな。

 

と、ただただ純粋に、そういう気持ちが伝わってくるものでした。

 

「そういうの、教えられる?」

 

と聞いてもらった時。

私のやりたいことは、きっとそれに近い。と思えたのです。

 

生け花の世界の、花と花との間の「空間」を見る、その奥深さももちろん好きだし、色んな人に伝えたいとも思うけれど。

 

その始まりは、きっとシンプルで。

 

これまでもずっとそばにあった「庭の花」や「台所の野菜」などを、「改めて見てみる」というような些細なことが、実は、今まで知らなかった世界へ通じる扉となるのかもしれない。

 

それは何かに隠れて見えなくなっていた家の中の小さな窓を、そっと開いてみるようなもので。

 

その窓から、どんな風が入ってくるか。どんな景色が見えるか。

 

一人一人の「体験」は全く別物で、それがまた面白い。

そういう出会いを、していけるような。そんな生け花となったらいいなと思えるのです。

 

まだうまくまとまりませんが、

晴空便りの生け花はやはり、

いわゆる「華道教室」とは全く別のものになるのだろうなぁ…。

 

 

明日の出会いもまた楽しみに。

できれば明日もまたたくさんの人に、お花を生けていただけますように。

 

 

   末富晶

 

<晴空便りホームページ>

seikuudayori.wixsite.com

 

 

 

凪いだ海に、櫂を持って

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不登校児時代、おそらくほとんどの方々が見れば驚くほどに真っ白なスケジュールの日々を過ごしていました。

(不登校体験記はこちらからお読みいただけます)

 

 

朝起きて、その日何をするのかという予定が全く決まっていない。

 

そんな日がほとんどで、

朝日が窓から差し込み、ふとんからむくりと起き上がって、

さて、そんな状態でどんな風に、何年間もの繰り返される毎日を過ごしていたのか…。

 

羨ましいと思われるかもしれませんが、

意外なことに何にも縛られない環境は常に快適というわけでもなく。

 

本来やるべきことを、やらずにいるのではないか。

 

といった不安はいつも小さな身体の奥の方でくすぶっていたように思います。

 

 

忙しいとは、心を亡くす、ということなのだと

 

最近、よく聞くようになりました。

 

そして大抵の場合、それは良い意味では言われず、

心を亡くすのは悪い事だ、という前提がその言葉の前には共有されているようです。

 

 

全然忙しくない日々をかなりたっぷりと過ごしていた私が

偉そうなことは何も言えないことを承知で書くのですが、

 

忙しい、にはたぶん二種類くらい種類があって

 

どちらも心を亡くしているのだけれど

 

「目の前のことに集中して心を亡くしている状態」の忙しさであった場合

それは案外いいことなのではないか、と思ったりもするのです。

 

一つの作業にかかりっきりになり、はっと気づいたら思いがけず時間がものすごく経っていた、とか。

 

今日一日思いっきり動いて身体は疲れたけど、気持ちはなんだか壮快、とか。

 

忙しいけど、元気だわ、という状態。

 

 

全然忙しくない不登校児初期の頃、私にはありあまる時間があったけど、

その中でどんな風に振る舞えばよいか分からず、

泳ぎを知らぬまま大海に放り出されたような状態で、

 

「力をぬき、のんびりプカプカ浮かんで波の行くに任せればいいんだよ」

 

と言われても信じきれず、手や足をでたらめにバタつかせては溺れかかっているに近かったかもしれません。

 

それに比べて、

 

忙しいけど、元気だわ

 

の状態は、自らの意思で船を漕ぎ、波の間を渡っていっているのだと思うのです。

 

 

それを無意識に感じていたのかどうかは分かりませんが、子どもの頃はよく人が小舟に乗って大海に浮かぶ絵を描いていました。

 

空に光るただ一つの星をたよりに、櫂をもって進んでいく。

 

そんなイメージに、憧れに近いものを抱いていたのかもしれません。

 

 

落ち葉のように、浮かんで流れる人生も

きっと奥深く素敵なのだと思いますが。

 

櫂を持つこと、すなわち行きたい方向を明確にする意思を持ち、進んで行くことは

人間だからこそ、できることなのかなと思えます。

 

 

おかげさまで現在は、なにかと忙しい毎日です。

 

忙しいけど、元気だわ、の季節を過ごし

願わくば明るい意思を持って、進んでいけますように。

 

 

    末富 晶

 

 

 

4月30日(日)

京都パレスサイドホテルにて開催の「こ・こ・か・ら」さんに出展させていただきます。

心のままに花を生ける、晴空便りの生け花を体験していただけます。

私はほとんど会場にいると思いますので、よろしければふらりとお出でください。

詳しくはこちらへ↓

晴空便り「生け花の時間」

 

 

 

<晴空便りホームページ>

seikuudayori.wixsite.com

 

 

 

 

透明な景色の向こうに

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昨日はなんだか急に暖かくなって、冬の装いを残したままの部屋に、窓を通して明るい日差しが差し込む日となりました。

 

バスの後ろの席から、入学祝いの相談をするご夫婦の会話が聞こえてきて、

お孫さんの年齢は存じ上げないけれど、京都のどこかよい画材屋さんで画材を買って贈ろうと思うがどこがよいだろうか。。。といった微笑ましい内容に、なんだかほのぼのとした気持ちとなったのです。

 

これから町が桜で染まり、

新しい職場や学校に通って新しい出会いをする人もたくさんいる時期なのですね。

 

私はあいにく卒業とも入学ともあまり縁のない人生を過ごしてきましたが、

それでも何か、春には他の季節にない特別な美しさを感じます。

 

花は桜木 人は武士

 

とは、よく聞きますが。

 

 

生と死が同じ空間に同時に存在するような。

 

いつもの景色がふと透明になり、その奥にもう一つの見えない世界が立ち現れるような。

 

 

美しい春爛漫の景色の中に、けれど同時に、静かなもう一つの世界が透けて見える。

 

 

私たちにはそれを感知する力があるのだと、いっそう強く知らせてくれる季節なのかもしれません。

 

 

 

言葉の意味よりも、その声の響きを。

 

人の姿形よりも、その影の揺れを。

 

どの花びらの色よりも、よりいっそう深く、花と花との間にある空間を。

 

見ることのできる、人でありたい。

 

 

それはいつもの世界と真逆の視点だから。

 

現代社会を生きる上で、そんな必要はない、と言われてしまうかもしれないのだけど。

 

 

自分が今いるこの場所と、自分が今持つこの感覚が、

ともすれば全てだと思いがちなこのうぬぼれを、

そのもう一つの世界の存在はそっと諭してくれる。

 

そんな気がするのです。

 

 

世界はまだまだ、未知で満ちていて。

 

そのことが、今の私にはとても嬉しい。

 

 

 

ひと時の春。

 

味わいながら、まいりましょう。

 

 

 

   末富 晶

 

 

 

4月30日(日)

京都パレスサイドホテルにて開催の「こ・こ・か・ら」さんに出展させていただきます。

心のままに花を生ける、晴空便りの生け花を体験していただけます。

私はほとんど会場にいると思いますので、よろしければふらりとお出でください。

詳しくはこちらへ↓

晴空便り「生け花の時間」

 

<晴空便りホームページ>

 

seikuudayori.wixsite.com

 

 

 

 

 

 

 

 

 

春うらら

 

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外を歩けばウグイスの鳴き声が聞こえ、

日差しは明るく、

町のいたる所に花粉症らしきマスク姿の方々も増えて、

ああ、すっかり春なのだと思える今日この頃です。

 

冬眠していたわけでもないのに

「さて、そろそろ動き出そうか」

と、わけもなく、あくびと共に伸びをしたい気分になります。

 

 

年明けからこの春に向けて、自分が意図していたものもそうでないものも色々と始まっています。

はじまりはじまり…と、幕を開けたそれぞれの物語がどんな風に展開していくのか。

演者と観客と監督と、できれば三人くらいの「私」を置いて、それぞれの立場から楽しんでみたいものです。

 

 

この間、地元の情報誌に年齢についての記事が載っていたのですが。

それによると、30代くらい以上の人の大部分が自分の内面の年齢は実年齢より下であると感じているということです。

 

年齢が上がれば上がるほど、その傾向は顕著に現れるらしいのですが。

 

自分がもう「30だなんて」「40だなんて」「50だなんて」「60だなんて」「70だなんて」…ほとんどの人が、「信じられない」気持ちなのだといいます。

 

私もそうかな、と自分を振り返ってみたところ。

 

確かに、この前まで十代だった気がしなくもないですが。

 

だからといって「34」という年齢に「えーっ」という思いもなく。

年上の方々には「それはまだ若くて身体に不調がないからよ」と言ってもらうのかもしれませんが、とにかく今の所、別に嫌な気持ちになる要素はないなぁというところです。

 

年齢はたぶん、「性別」とか「職業」とか「国籍」と似ていて。

 

その人自身のためというよりも、その人以外の人がその人の輪郭をなんとなく掴むために最初に必要となる項目の一つなのだろうと思います。

 

10代と、20代と、30代とでは。

たとえ私が何も変わらなくても、まわりの反応や言葉遣い、対応のされ方が変わってくる。

人との関わりはダンスのようなものだから、出される反応によってこちらも動きを変えねばならず、そのことを人は「年齢を実感する」と言うのかもしれないなぁと思ったり。

 

でも「信じられない」という誰もが知るように、「年齢」はその人の内面を知る基準には決してなり得ない。

 

重要だと思われている「性別」も「職業」も「国籍」も「年齢」も。

 

「その人自身」…彼や彼女がどんな風にこれまでを生きて、どんなことを大切にして、どのように世界を感じているか…といったようなことには実はほとんど何の関係もないというこの事実。

 

 

現代を生きていると、こんな当たり前のことを知るに付けて、いちいち驚愕してしまいます。

 

 

 

 うららかな春。

どうぞみなさん、すてきな時間をお過ごしください。

 

 

   末富晶

 

 

4月30日(日)

京都パレスサイドホテルにて開催の「こ・こ・か・ら」さんに出展させていただきます。

心のままに花を生ける、晴空便りの生け花を体験していただけます。

私はほとんど会場にいると思いますので、よろしければふらりとお出でください。

詳しくはこちらへ↓

晴空便り「生け花の時間」

 

 

<晴空便りホームページ>

seikuudayori.wixsite.com

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

詩を書く人

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パリやミラノでの海外華展をきっかけに生け花と詩を合わせた表現をするようになり、

それまでノートにただ書き留めるのみだった言葉たちが、

アクリル板に乗って形を持ち空間に浮かぶのを見るようになりました。

 

 

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<写真・2016年 華道壮風会 東京展 出展作品>→詳しくはこちらの記事へ

 

 

 

詩を書くようになったのは何歳の時の話なのか。

 

正確には覚えていないけれど。

14か15の頃にはもう、言葉を書きためたノートを数冊持っていたような気がします。

 

世の中にもし、

詩人となる要素を持ち合わせている人と、持ち合わせていない人がいるとするなら

私は明らかに前者なのでしょう。

 

毎日何かを書いているわけでは決してないのだけれど。

 

人生のある時々、ふと思い立ったように、何冊も言葉がノートを埋める時期があります。

 

普段の自分がいるスペースとは別の空間から、

こう言っては何だか怪しい響きがするけれど

その言葉たちはふと「降りて」くる。

 

私にとってそれはごく自然なことで。

「あ、きた」と思えば書くだけのことで。

書いたまま忘れてしまったりもして。

 

そしてとても不思議なことなのだけど、

その10年後、20年後の自分がまた、その時の言葉たちに色んな気づきをもたらされたりもする。

 

「こんな言葉を書いていたのか…」

 

と、時空を超えて届いた過去からのメッセージに

驚かされることもしばしばあるのです。

 

それが誰か他の人のためにもなる言葉なのか、

その辺りのことはまだよく分からないのだけど。

 

少なくとも私は私のために、

時折こうして、言葉をためるのだと思うのです。

 

 

 

「ポエム」とか「ポエマーだね」とか

この国で普通に言われる時、

あまりいい意味じゃないことが多いのはどうしてなのか。

 

 

音楽と同じくらいに身近な場所に

 

本当は詩も、存在していると思うけれど。

 

 

詩人の要素を持つ方は、

どうぞたった一人でも、

その言葉を書きとめて欲しい。

 

たとえ他の誰の目に触れることがなくとも、

書きとめたその小さな一文字ずつの積み重ねが

少しずつ世界を美しくする。

 

 

そんな気がするのです。

 

 

 

   末富晶

<晴空便りホームページ>

seikuudayori.wixsite.com

 

 

 

 

 

 

 

 

あの頃の私へ

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 <生け花(フリージア・ハラン) 末富晶 2017年2月>

 

 

34才になりました。

 

 

人に説明できる名を持つような何者にもなっていないのにおかしな話かもしれませんが、

ごく純粋に、「よくぞここまで」という思いがします。

 

普段、あまりそういうことはないのですが

この間改めて不登校児時代のことを人に伝えるための文章を考えていて、ふいにボロボロ泣けてきました。

 

辛かった過去を思い出した…というのとはちょっと違います。

 

あの頃はあの頃で、思い悩むことももちろんあったし常に未来が希望に満ちあふれていたわけでもありませんが、逆に言えば幸運にはしゃぐこともあったし常に未来を悲観していたわけでもないのです。

 

気持ちの揺れはシーソーのように、あっちに行ったりこっちに行ったり。

 

ただそうして大きな波に揺られながら、心の奥底のどこかに

「こうなったらいいな」という未来の姿への希望と、

「こうなったらどうしよう」という未来の姿への不安が同時に存在していました。

 

今の私はたぶん、そのどちらとも似ても似つかない姿をしていると思います。

 

でも、

私は今、そのことが嬉しい。

 

あの頃の自分が知らなかった私になっていることが、静かに嬉しい。

 

あの時、10才にして学校に行かなくなり、世間のルールから外れてしまったと感じていた私は、心の底から自分の選択に全肯定してくれる人を探していたけれど。

 

求めていたその相手は、実は未来の自分だったのだ、と、そんな気がして泣けたのかもしれません。

 

私は大人の私から、「あなたはそれでいい」と言われたかった。

 

 

そして今、世間から見た自分ではなく、自分から見た自分の「私」として、あの頃の私にはっきりとそう言ってあげられる。

私にとっては今、それは本当に嬉しいことなのです。

 

 

 

ここからまた、新しい一年。

想像の未来の枠を、ひらりと明るく越えていけますように。

 

 

 

 

   末富晶

 

<晴空便りホームページ>

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