晴空便り

エッセイスト・生け花アーティスト・末富晶の晴れた空へつながるブログ

ただ共鳴するためだけに~優しい社会に必要なものとは~

 

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明後日、ありがたいことにまた、不登校時代のお話をさせてもらうことになっています。

 

その資料作りをしていて、ふと思い出した二十歳くらいの時のこと。

 

東京の真ん中で、仲間とともに、グループをつくって

その時の自分たちなりに、小さくとも、社会を少しずつよくしていきたいと考えていた頃があった。

 

押入れを探っていたら、もう十年以上も前のその頃にそのグループづくりのために書いた文章が出てきて。

 

書いているテーマが今読んでも的外れにも幼くも感じないことに、驚くような納得もするような、不思議な気持ちになりました。

 

そのグループの名前はECHO(エコー)といって、

文章は「共鳴」の重要性について書いてある。

私たちの社会はいま、なんだか優しくなくて、自分たちは優しい社会を目指していて、それに最も必要なのは、きっとこの共鳴、互いに響き合うことなのだと。

 

人は、ひとりではもちろん、共鳴することはできない。

 

まっくらな何もない空間の中では、自分の発した言葉も聞くことができないし、

「自分」という存在について掴むことさえ難しい。

 

自分を知るためには、必ず自分以外の存在が必要で、

私たちは反響しあってこそ、ここにいることができる。

 

優しい社会とはたぶん、そのことを知っている社会だと。

 

 

その頃仲間内で、

難しい家庭環境にいる子の今後の生活についてとか

不登校としてそもそも人生序盤から何らかのドロップアウトをしている自分たちの生き方についてとか、

考えることはたくさんあって。

 

みんなで夜ごと集って

こういうことを考えてきたということが

今、確実に私の糧になっているし、

これからしていくことの核であるとも思えて。

 

私の人生、色んなことをしているようで

なかなかに一本筋が通っているのかもしれないな、と思えたのです。

 

 

「共鳴」と「共感」は、似ているようでその実中身は異なるもので。

 

共鳴はただ響くだけだけれど、

 

共感には判断が入るから。

 

共感するためには、「良い」や「悪い」、「好き」や「嫌い」のジャッジが必要で。自分のそれと、相手のそれが同じでなければならなくて。

それはもしかすると、意外なことに優しい社会からは少しズレることなのかもしれない。

 

共鳴の、物事の良し悪しを越えた場所で

 

「あなたはそうなのですね」

 

と、ただ響くスタイルで。

 

 

お互いに存在することを、祝福し合えたら。

 

あるいは優しい社会に至る日も、そう遠くはないのではないか。

 

 

あの頃のことを思い出しながら、そんなことを考えつつ。

さて今日と明日でもう少し、準備を進めてまいりましょう。

 

 

みなさまもどうぞ、すてきな一日をお過ごしください。

 

 

    末富 晶

 

<晴空便りホームページ>

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雨の日に書く晴空便り

 

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5月になりました。

 

お久しぶりの、晴空便りです。

 

 

更新していない間も、何度か書こうとしていて。

 

いくつか書いて、ストックもしてあったのだけれど。

 

なぜだかこれは、今出すタイミングではないかな、という気持ちが続き。

すんなりスムーズに流れる日を待っていたら、今日になりました。

 

別にそんなに大げさな内容ではなく、

今日のこの文章とさほど変わらない肩の力のぬけ方のものばかりなはずなのですが。

 

それでも自分の中で、

何かうまく伝えたいことが書けなかったな、と思えると。

やはり更新をしぶってしまいます。

 

そうこうしているうちに、

いつも読んでいるブログや

新しく出会ったブログなどで

 

その更新されずにストックに入っている私の言葉とほぼ同じ内容のものが

 

先に更新されているのを目にしたりする。

 

特に直接の知り合いではなかったり、遠く離れて住んでいたりするのに、

どうしてこういうことが起こるのか本当に不思議なのですが。

 

私が書いたこととそっくりそのままのことを、

代わりに書いていてくれたりするのです。

 

もちろん好きで読んでいるのだから、多少なりとも考え方の好みや方向性が合っている方々なので、そういったことが起こるのも別におかしくはない、と言えるのですが。

 

それでも、ほんの2日くらいの間のズレでこうしたことが起こるとなると、

偶然ではないのかな、という気がします。

 

 

私はこのブログで、

自分の不登校体験についてや

生け花の世界の話などを、

主なテーマとした記事を書くことが多いけれど。

 

実際のところ、別に不登校にも生け花にも何も関係のない

全く別の世界の話題にも、私が書いたことと本質的には何ら変わらない話が立ち上がってくる。

 

不登校は、私の中で分かりやすい例として挙げているけれど、

本当は、人が抱える問題や悩みの底はつながっていて、

いつも辿ると一つのところにたどりつくものなのだと感じます。

 

私たちは、例えるなら一本の大きな木で。

たくさんの枝に分かれた先にある、一枚の葉っぱのようなものなのかもしれない。

 

枝をたどり、幹をたどり、地中にもぐれば、

その根の広がる先につながる大地は、

結局ほかの木々と同じ場所で。

 

人の苦しみの生まれる場所が、同じ地中なら。

 

希望の光の生まれる先も、また同じ空にある。

 

同じ時に異なる場所で同じ歌が歌われているのを心強く受け止めて、

しっかり地中に根をはり、まだまだ空に枝をのばす、

一本の大きな木でありたいと。

 

雨の日に、

晴れた空を思い浮かべて、感じます。

 

 

新緑の時期。

 

桜の花もよいけれど。

 

あおい紅葉の美しさもまた、格別ですね。

 

 

みなさんどうぞ、すてきな日々をお過ごしください。

 

 

 

   末富晶

 

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時代の流れに世界をのせて

 

現代生け花展「TUDOU〜集う〜」、15日におかげさまで無事に最終日を迎えました。

 

私にとっては初めての、華道壮風会の名を冠しない華展で。

たくさんの実りがあった5日間。

 

私個人としては不登校のお話会まで開催させていただいて、

自分の持っている色々な可能性を引き出してもらえる、

 

そんな多面的な展覧会となりました。

 

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世界のどの辺りに目を向けて生きていけば良いのかということについて、

 

最近、よく考えます。

 

 

私たちの住むこの星の中では、

よく言われるように

きっとそれぞれが自分の見たいものを見て、聞きたいことを聞いて、

 

100人いれば100通りの世界があり、

他のものを寄せ付けない圧倒的な「正解」としての1つの道など存在せず。

 

だからこそ、

自分が何を選んで「見て」いるのか、「聞いて」いるのか、

「どこに」いるのか、について

意識的であることが大切なのだろうと思うのですが。

 

そういう個人的な居心地の良し悪しの話とはまた別のところに、

 

この今に生きるすべての人に同時にもたらされている

 

「時代の流れ」と呼べるものがあり。

 

私たちは好む好まざるに関わらず、

それをまとい、その流れの中にどうあるかもまた、考えていかなくてはいけない。

 

個人としての自分の場所を、自分自身の世界の中にしっかりと据えたなら。

 

やはりそれで満足して終わりなのではなくて、

その後にさらなる世界へと展開していかなくてはいけない。

 

そういう風になっているのではないか、と思えます。

 

いかなくては…という書き方だと、何か強制的なものと感じられるけれど。

たぶん、その避けることのできない流れの中にこそ

一番の面白さも隠されていて。

 

 

この時代を選んで生まれてきたのかどうか。

 

その答えについてはまだ、個人的には保留なのだけれど。

 

もし仮に、そうなのだとしたら、

「そこを味わってこそ」の醍醐味であると言えるのかなと思えます。

 

 

 

なんだか分かるような分からないような、

抽象的すぎる表現であいすみません。

 

 

いろいろなことが起こっては過ぎてゆき、

くるくると、頭のなかもさまざまに巡る日々。

 

春が来たかと思ったら、

思わぬ寒さが舞い戻り、

また暖かくなる今日この頃ですが

 

みなさんどうぞそれぞれに、

すてきな時間をお過ごしください。

 

 

 

   末富晶

 

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パネリストをさせていただきました

 

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昨日は久しぶりにたくさんの方々の前で不登校時代の話をする機会をいただきました。

 

 

『大人になった元不登校児の話ということで、他の二名の方と共に、パネリストをお願いします』

 

とのことだったので、勝手に三者での座談会的な雰囲気なのかなと思っていて、

コーディネーターの方からの質問にこたえながら、みんなで話をしていくスタイルだと想像していたのですが。

蓋を開けてみればそうではなくて、

前半と後半、20分ずつそれぞれの体験を一人ずつ話す。

という、それぞれのミニ講演会のような形式だったのです。

 

事前に打ち合わせもしていただいていて、

そこに至るまでに分からないのはおかしいのですが、

何か私の「パネリスト」という言葉に対する思い込みが強かったようで

なんと当日までその勘違いに気づきませんでした。

 

控え室で当日一緒にお話するお二人と「今日はよろしくお願いします」と挨拶して、

「20分間話すの、緊張しますね」

といった話題が出てはじめて、

「あれ、もしかして打ち合わせの時に前半20分っておっしゃってたのって、一人20分という意味ですか?」

と気づくという始末…。

よくよく考えれば時間配分的に前半は一時間になるはずなので、そう考えれば一人ずつ20分という意味であることは当たり前です。

この理解力のなさが不登校という過去のせいではないことは、同じ経験を持った他のお二人がきちんと意味を理解してしっかり自分の話す内容をまとめてきておられたことからも明白です。

 

こうして私は会がはじまる5分前に、ささっと走り書きでこれだけは伝えたいという内容を一気にメモし、

そんな状態でちゃんとしゃべれるのかと心配する暇もないくらいにすぐに訪れた自分の持ち時間を、結果的には意外と内容につまることなく話し終えるという綱渡り芸をしてしまったのです。

 

不登校のことをこれまで何度か文章に書かせていただいたり、お話させていただいていた経験があって本当に良かった。

自分の中で最近は不登校時代のことが年齢別と系統別にファイル分けされて並んでいるような感があり、「この巻の○○の話」と棚から出してきて開けば、すぐにそのお話ができるようになってきた気がします。

自分の記憶とはいえ、手つかずで放置していた時には色々なものがごちゃごちゃになっていて他の方にスムーズにお伝えすることは難しかったはずなのでこれは本当にもう近年のそうした「思い出し作業」の賜物と言えるでしょう。

 

 

あの頃の自分の気持ちを、あの頃の自分は言葉で伝えることができなかったし、

今の自分にとっても、まだ100パーセント言葉に出来るとは感じられない。

 

 

パネラーのお一人がおっしゃったそうした内容のお話を、

私も自分と重ね合わせて頷きながら聞いていました。

 

その時の複雑に絡み合った自分の感情や状態を表現しようと

ぴったりな言葉を探してみるけれど、

まだ十分な語彙力のない小さな人にとっては

それはかなり難易度の高いほとんど達成不可能な挑戦だし、

大人になって落としどころが見えてきて

取りあえず「こういう言葉」に置き換えておこうということが出来るようになったところで

それはやっぱり、その感情そのものではないはずなのです。

 

 

私が今やっているのは、そうした意味で

あの頃の不登校児だった小さな自分の言葉を

なんとか他の大人にも伝わる形で話そうとする

一種の翻訳作業のようなことなのかもしれません。

 

 

それにしてもやっぱり、

実際に人が集まって何かを共有する場というのは

大きなエネルギーが生まれるものですね。

 

席が足りなくなるほど、

満員となった会場。

 

色々な出会いがあり、

私にとってもとても刺激がある充実の一日となりました。

 

 

声をかけていただき、ありがとうございました。

またの機会にお会いできる日を楽しみにしています。

 

 

    末富晶

 

 

 

<私の不登校記はこちらからどうぞ>

seikuudayori.hatenablog.com

 

 

 

< 現代生け花展TUDOU 4月11(水)〜15日(日) >

seikuudayori.hatenablog.com

 

 

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現代生け花展TUDOU〜不登校ほんわか立ち話〜

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 来月、神戸にて現代生け花展「TUDOU〜集う〜」に出展させていただきます。

 

4月11日(水)〜15日(日)

11:00〜18:00(最終日は17:00)

入場無料

会場:GALLERY 北野坂 アクセスはこちら↓

http://gallery-kitanozaka.com/map/map.html

 

8人の作家が各々の個性で多種多様な生け花の世界を表現

投げ入れと呼ばれるスタイルの作品から

「これも生け花?」と固定観念が覆される作品まで

誰でも簡単にお花を生けることができるスペースもあります

生け花を身近に感じる体験型の展覧会

公園に訪れるような気持ちでおいでください

 

 

会場内にて初日の11日に、少し不登校のお話をさせていただくことになりました。

 

不登校ほんわか立ち話」

4月11日(水)14時〜15時

不登校児・末富晶が語る学校に行かない生き方の一例

場所:現代生け花展TUDOU会場内にて

参加費:無料  申し込み:不要

 

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このブログではいつもお話しているのですが、

私は小学校3年生から学校に行かなくなり、そのまま校舎に戻ることなく成長し、

現在30代の大人と呼ばれる年齢になりました。

 

 

seikuudayori.hatenablog.com

 

学校に行かなかった人はこの国の中ではもちろん圧倒的少数派なので、

今に至るまでの道がどんなものだったのか、

不登校中の生活はどんな風だったのか、

興味を持ってもらうことも多く、

自己紹介をかねて作品の前で少し不登校の経験についてお話させていただこうかなと考えています。

 

とはいえ来てくださる方がおられれば…の話なのですが。

神戸は普段の生活圏から遠いこともあり、実はまったくあてはありません。

 

もし、不登校を体験した人に興味がある方、

何か質問がある方がおられれば

少なくともこの時間は私は会場におりますので、お越しいただければ嬉しいです。

 

一応時間は14時〜15時となっていますが、

「立ち話」なのであまり長くなってもあれですので

公園でふと知り合いを見つけてちょっと話し込んでしまった、、、

くらいの感じで、来ていただけた方とお話できたらいいなと思います。

参加費・申し込みは不要です。

 

 

 

現代生け花展「TUDOU〜集う〜」は、15日(日)まで5日間開いています。

 

 

 

    末富晶

 

 

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一期一会の旅人たち

 

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しばらく前からうっすらと気が付いてはいたのですが。

 

 

私はどうやら、比較的

「道を聞かれやすい人」であるらしいです。

 

他の人と比べてみたことがないので、

平均値よりどのくらい多いかといった

具体的な程度の差は分からないのですが

 

とにかくなんだか、

地元はもちろんのこと、全然地元じゃない旅先でも

下手をしたら東京にいたって

なぜかよく道を聞かれます。

 

「明らかに地元の人」といった感を出した

スーパーの袋をぶらさげて歩いている時ならいざ知らず、

東京などの大都会にいるときは自分なりに少しは身なりを気をつけており、

近くからコンビニまで出てきましたよ、という風ではないはずなのですが。なぜでしょうか。

 

一つは、たぶん、

見かけがおそらくとっても「害がなさそう」という点が大きいと思われます。

身体も小さく、女性ですので、相手にとって危害を加えられる可能性が少ないと感じられ、安心感があるのかもしれません。

 

二つめは、たぶん、

スマホに疎い方であることが関係しているかもしれません。

電車に乗っていても

スマホも本も見ていなければ耳にイヤフォンもしていない」

という状態にあったのがその時その車両でたまたま私だけ、

というケースも多く、

誰かに質問したいときょろきょろしている人とは自然に目が合いやすくなり、

始発で発車待ちの車内にいるとよく「この電車○○駅に行きますか?」と聞かれたりします。

 

(とはいえ私も一応はスマホを持っていて、もちろん目を向けることもあり、

それがいつの間にか長時間におよぶこともあって

「全く使っていません」というわけでは全然ないのですが。

 それと同じくらいかそれ以上にはぼーっとしている時も多いかなと思うので、

声をかけやすい雰囲気を知らず醸し出しているのかもしれませんね)

 

 

 この間は、そのいつもの「道を聞かれる」の変化球バージョンといった出来事がありました。

 

バス停に並んでバスを待っていると、

前に並んでいた男性の背中がくるりとこちらを振り返り

「すみません」

の声かけ。

どうやら外国からの観光客の方のようだったので、

ああ何か聞きたいのかな、と

その推測はあたっていたのですが。

 

「バスの券は車内で買うことができますか?」

 

そう訪ねてきたのは、彼自身ではなく、彼が手にしたスマホでした。

こちらに向けられた画面に日本語で書かれたその文章を

私が内容を理解すると同時か一拍くらい遅れて機械の女性の声が抑揚なく読み上げます。

 

 「はい、買えますよ」

 

簡単な質問で良かったと思いながら

オーケーのサインと共に自信を持って頷けば、男性はまたもスマホを操作。

次の画面には

 

「もしかすると運転手から買いますか?」

 

の文字があり、それをまた同じ機械の声が読み上げてくれました。

 

「はい、そうです」

 

大きな肯定と共にまた頷くと、男性は笑顔で自分の定位置に戻った…と、まあそれだけのやり取りだったのですが。

 

もしかしたらもうとっくの昔から常識なのかもしれませんが、

おそらく男性が母国語で打ち込んだ質問の文章を、自動的に日本語に翻訳&読み上げてくれるアプリがあるのですね。

まだまだ翻訳機能と読み上げの性能には難ありで、日本語として不自然な部分もあるけれど、それでも意味は十分通じるし、今のような旅先でのちょっとした質問には重宝しそうです。

 

一昔前には考えられなかった質問の方法に、少々面食らいつつ

技術の進歩はきっとこれからも進み、

そのうち翻訳も声音も違和感がなくなり

言葉の通じない者同士でもよりスムーズなやり取りが出来るようになる。

その日は案外、近いのではないか、と思えました。

 

それはドラえもんでいうところの、翻訳こんにゃくが実現している世界と言えるのかもしれませんね。

 

フランス語を学びはじめて早幾年。

相も変わらず亀の歩みを続けてもがいている身としては、

もうすぐ言語の違いが会話の壁になることもなくなるのかなぁと想像すると

なんだか複雑な気分になってきます。

 

それは、とても素敵な、未来のようだけれど。

 

だけどどうしてでしょう、

あの時の男性が、質問の答えに安堵して笑顔を向けた先が

こちらではなくスマホ画面の中であったことが

なんだか一抹の不安を感じさせます。

 

 

母国語とは別の言葉を

自分の口から話そうとすることと

翻訳こんにゃくさながらの道具を使うのと、

 

根本的にはきっと、「何か」が違う。

 

 

さて、その「何か」とは何なのか。

 

どちらが良い悪いではなく、

その違いが何かをはっきりさせ、

自分自身の中に答えを見つけておくこと。

 

来るべきもっともっと科学技術が進んだ後の世界において

きっとそのことは、とても大事なことなのだろうなと思えた一件でした。 

 

 

日に日にあたたかくなる今日この頃。

あともう少しで、再び桜の季節がめぐってきますね。

 

みなさんどうぞそれぞれに、

すてきな春の日々をお過ごしください。

 

 

    末富 晶

 

 

 

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7年目の春の日に

 

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この国に大きな傷跡を残したあの日から、7年の月日が過ぎました。

 

多くの人にとってきっとそうであるのと同じように、

私はまだこの日のことを語る言葉を持たないと感じているけれど。

やはり何年経っても、当時のことを思い出して、新たな生き方を考える、特別な日だと思えます。

亡くなられた方々のご冥福を心よりお祈りいたします。

 

7年というと、人間の身体の細胞すべてが入れ替わる年月だ、とか

いいやそれは真実ではない、とか

いろんな話を聞きますが。

 

感覚的には確かに、7年くらいでちょうど何かが一巡りする、という気がします。

 

どこで区切らなければならない、という決まりはないけれど

それでも何かここら辺で

これまでの自分とは決別し、新たに生きはじめなくてはならない、

そう思えるようなタイミングが、7年に一度くらいの感覚で訪れてくる。

 

 

歩いて来た人生の道筋が少しずつ長くなるにしたがって、

ある程度の心構えとともに

「またきたか」

と、その時期に向き合えるようにもなるようで。

 

もう覚悟を決めるしかなくなるような

その瞬間さえもいっそ清々しく思え

いつの間にか嫌なことではなくなっていると感じます。

 

そのタイミングが来れば、

「私はこうだから」

と普段決めてかかっている「自分の枠」みたいなものを

あっけないくらいに簡単に、壊したり越えたりするチャンスとなる。

 

自分をどんな人間にしておくか、ということは

実は自分自身で決められるのだけれど、

 

それを認めるのは色んな意味で恐いので

あえて知らないふりをしておきたくもなる。

 

そのことはきっと全く、悪くない。

悪くないのだけれど、

人がもし、成長し、変わってゆける種族なのだとしたら

いつまでも同じ場所に留まろうとすることは

どこかの時点で必ず、その人自身を苦しくさせてしまうものなのだろう。

 

 

いつも通りの繰り返しの考えが

梅干しを見てつばが出るのと同じような

単なる「反応」と呼ばれるものならば、

 

本当の「思考」は

その無限に続く惰性のループから

自らを救い出す蜘蛛の糸のようなものかもしれない。

 

助け出されるのも自分なら、

助けるのも自分。

 

 

 

7年のくぎりを越えて、

次の世界への旅路はつづいている。

 

 

 

    末富晶

 

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