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晴空便り

造形詩家・末富晶の晴れた空へつながるブログ

春うらら

晴空便り

 

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外を歩けばウグイスの鳴き声が聞こえ、

日差しは明るく、

町のいたる所に花粉症らしきマスク姿の方々も増えて、

ああ、すっかり春なのだと思える今日この頃です。

 

冬眠していたわけでもないのに

「さて、そろそろ動き出そうか」

と、わけもなく、あくびと共に伸びをしたい気分になります。

 

 

年明けからこの春に向けて、自分が意図していたものもそうでないものも色々と始まっています。

はじまりはじまり…と、幕を開けたそれぞれの物語がどんな風に展開していくのか。

演者と観客と監督と、できれば三人くらいの「私」を置いて、それぞれの立場から楽しんでみたいものです。

 

 

この間、地元の情報誌に年齢についての記事が載っていたのですが。

それによると、30代くらい以上の人の大部分が自分の内面の年齢は実年齢より下であると感じているということです。

 

年齢が上がれば上がるほど、その傾向は顕著に現れるらしいのですが。

 

自分がもう「30だなんて」「40だなんて」「50だなんて」「60だなんて」「70だなんて」…ほとんどの人が、「信じられない」気持ちなのだといいます。

 

私もそうかな、と自分を振り返ってみたところ。

 

確かに、この前まで十代だった気がしなくもないですが。

 

だからといって「34」という年齢に「えーっ」という思いもなく。

年上の方々には「それはまだ若くて身体に不調がないからよ」と言ってもらうのかもしれませんが、とにかく今の所、別に嫌な気持ちになる要素はないなぁというところです。

 

年齢はたぶん、「性別」とか「職業」とか「国籍」と似ていて。

 

その人自身のためというよりも、その人以外の人がその人の輪郭をなんとなく掴むために最初に必要となる項目の一つなのだろうと思います。

 

10代と、20代と、30代とでは。

たとえ私が何も変わらなくても、まわりの反応や言葉遣い、対応のされ方が変わってくる。

人との関わりはダンスのようなものだから、出される反応によってこちらも動きを変えねばならず、そのことを人は「年齢を実感する」と言うのかもしれないなぁと思ったり。

 

でも「信じられない」という誰もが知るように、「年齢」はその人の内面を知る基準には決してなり得ない。

 

重要だと思われている「性別」も「職業」も「国籍」も「年齢」も。

 

「その人自身」…彼や彼女がどんな風にこれまでを生きて、どんなことを大切にして、どのように世界を感じているか…といったようなことには実はほとんど何の関係もないというこの事実。

 

 

現代を生きていると、こんな当たり前のことを知るに付けて、いちいち驚愕してしまいます。

 

 

 

 うららかな春。

どうぞみなさん、すてきな時間をお過ごしください。

 

 

   末富晶

 

 

4月30日(日)

京都パレスサイドホテルにて開催の「こ・こ・か・ら」さんに出展させていただきます。

心のままに花を生ける、晴空便りの生け花を体験していただけます。

私はほとんど会場にいると思いますので、よろしければふらりとお出でください。

詳しくはこちらへ↓

晴空便り「生け花の時間」

 

 

<晴空便りホームページ>

seikuudayori.wixsite.com

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

詩を書く人

晴空便り

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パリやミラノでの海外華展をきっかけに生け花と詩を合わせた表現をするようになり、

それまでノートにただ書き留めるのみだった言葉たちが、

アクリル板に乗って形を持ち空間に浮かぶのを見るようになりました。

 

 

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<写真・2016年 華道壮風会 東京展 出展作品>→詳しくはこちらの記事へ

 

 

 

詩を書くようになったのは何歳の時の話なのか。

 

正確には覚えていないけれど。

14か15の頃にはもう、言葉を書きためたノートを数冊持っていたような気がします。

 

世の中にもし、

詩人となる要素を持ち合わせている人と、持ち合わせていない人がいるとするなら

私は明らかに前者なのでしょう。

 

毎日何かを書いているわけでは決してないのだけれど。

 

人生のある時々、ふと思い立ったように、何冊も言葉がノートを埋める時期があります。

 

普段の自分がいるスペースとは別の空間から、

こう言っては何だか怪しい響きがするけれど

その言葉たちはふと「降りて」くる。

 

私にとってそれはごく自然なことで。

「あ、きた」と思えば書くだけのことで。

書いたまま忘れてしまったりもして。

 

そしてとても不思議なことなのだけど、

その10年後、20年後の自分がまた、その時の言葉たちに色んな気づきをもたらされたりもする。

 

「こんな言葉を書いていたのか…」

 

と、時空を超えて届いた過去からのメッセージに

驚かされることもしばしばあるのです。

 

それが誰か他の人のためにもなる言葉なのか、

その辺りのことはまだよく分からないのだけど。

 

少なくとも私は私のために、

時折こうして、言葉をためるのだと思うのです。

 

 

 

「ポエム」とか「ポエマーだね」とか

この国で普通に言われる時、

あまりいい意味じゃないことが多いのはどうしてなのか。

 

 

音楽と同じくらいに身近な場所に

 

本当は詩も、存在していると思うけれど。

 

 

詩人の要素を持つ方は、

どうぞたった一人でも、

その言葉を書きとめて欲しい。

 

たとえ他の誰の目に触れることがなくとも、

書きとめたその小さな一文字ずつの積み重ねが

少しずつ世界を美しくする。

 

 

そんな気がするのです。

 

 

 

   末富晶

<晴空便りホームページ>

seikuudayori.wixsite.com

 

 

 

 

 

 

 

 

あの頃の私へ

晴空便り 不登校と私

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 <生け花(フリージア・ハラン) 末富晶 2017年2月>

 

 

34才になりました。

 

 

人に説明できる名を持つような何者にもなっていないのにおかしな話かもしれませんが、

ごく純粋に、「よくぞここまで」という思いがします。

 

普段、あまりそういうことはないのですが

この間改めて不登校児時代のことを人に伝えるための文章を考えていて、ふいにボロボロ泣けてきました。

 

辛かった過去を思い出した…というのとはちょっと違います。

 

あの頃はあの頃で、思い悩むことももちろんあったし常に未来が希望に満ちあふれていたわけでもありませんが、逆に言えば幸運にはしゃぐこともあったし常に未来を悲観していたわけでもないのです。

 

気持ちの揺れはシーソーのように、あっちに行ったりこっちに行ったり。

 

ただそうして大きな波に揺られながら、心の奥底のどこかに

「こうなったらいいな」という未来の姿への希望と、

「こうなったらどうしよう」という未来の姿への不安が同時に存在していました。

 

今の私はたぶん、そのどちらとも似ても似つかない姿をしていると思います。

 

でも、

私は今、そのことが嬉しい。

 

あの頃の自分が知らなかった私になっていることが、静かに嬉しい。

 

あの時、10才にして学校に行かなくなり、世間のルールから外れてしまったと感じていた私は、心の底から自分の選択に全肯定してくれる人を探していたけれど。

 

求めていたその相手は、実は未来の自分だったのだ、と、そんな気がして泣けたのかもしれません。

 

私は大人の私から、「あなたはそれでいい」と言われたかった。

 

 

そして今、世間から見た自分ではなく、自分から見た自分の「私」として、あの頃の私にはっきりとそう言ってあげられる。

私にとっては今、それは本当に嬉しいことなのです。

 

 

 

ここからまた、新しい一年。

想像の未来の枠を、ひらりと明るく越えていけますように。

 

 

 

 

   末富晶

 

<晴空便りホームページ>

seikuudayori.wixsite.com

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一つの井戸を掘るように

晴空便り

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二月は私の誕生月でもあるからか、やっぱり何か特別な感じがします。

 

一月一日はそれはそれで皆で新年を祝うけれど、

私にとって二月は一人、これまでの一年を振り返り新たな年へ思いを馳せる静かな月…。

 

今年はその二月もあっという間にめぐってきて、

めまぐるしい流れの中、四日目にしてやっと落ち着いて座る時を得たような気がします。

 

たくさんのことがありすぎて、何を書けばいいのか、もはや分からないくらい。

 

時を待っていたあちこちの種が春の日差しに一斉に芽を出すように、あれもこれもと、動いてきているのを感じます。

 

 

 

 「一つの井戸を掘りなさい」

 

 

とは、恐らく多くの方が耳にしている言葉で。

 

知識でも勉強でも修練でも、

あれこれと多くに手を出さず、自分がこれと思った場所で井戸を深く掘り進め、水脈を探しなさい。

 

と、簡単に言えばそういうことなのだろうと思うのですが。

 

 

私は長い間、そんな風に生きているつもりは全くありませんでした。

 

文章を書くのが好きで。

生け花も好きで。

フランス語もやりだしたり。

他にもあれやこれや。

 

自分の人生の軸と感じるものが一つではなく、一つ一つは関係のない場所でちらばっていて。

 

まとまりようのないものたちを、しかしどれも手放せず、

一つの場所に井戸を掘ることが出来ない人生なのだと、なんとなく思っていたようなところがあるのです。

 

 

でもここへ来て、それは違ったのだな、と、まだ仄かながら見える兆しにはっきりと感じることが出来るようになりました。

 

バラバラに見えていたその別々の「ずっとやってきた事」は、本当は「一つのこと」だった。

 そういうことに、気づきはじめたのです。

 

 

たぶん私は今まで、ずっと「準備」をしていたから。

それはそれで必要なことだったけれど、動き出さずに一人準備しているうちには、きっとこのことは見えなかったのだと思います。

 

私が別々のものと考えてきたことたちは、すべて、ひとつながりの命の上にあるものだったということ。

 

花弁と、茎と、葉と、トゲと、

 

そのどれがなくても、バラの花にはならないように。

 

 

おいしい水が、たくさんの種類の野菜と共に、火の力で煮込んではじめて

スープとなるように。

 

 

私がこれまでやってきた、大事に思う一つ一つの事柄は、

この先何かをつくるための「材料」となる基盤のようなものだったのかもしれない。

 

そのつくりたいものが、今すでに存在する名前のついたものであれば

目標とするものに迷わず進んでいる、という自信も持てようものですが。

 

つくろうとするものが、全く新しいか…少なくともここ100年くらい見かけていない、とか

その人独自のものである、とかいう場合、

途中までは一体何の材料を集めているのか、これでつくれるものなどあるのか、きっと自分でも見えないのだろうと思います。

 

でもきっと、この世に生を受けた一人一人、人生の中でその人のつくるものは違っていて。

 

集めるものも、生み出すタイミングも、本当にそれぞれで。

ただの一人も、同じということはなくて。

 

それぞれの命を、どう生かしていくか。

 

見つけたものたちを合わせて、どんな風に、新しい命の動きをつくっていくのか。

 

 

その違いを見ることが、もしかしたら、この世に生きる上で最高に楽しいことの一つなのかもしれない。

 

花や、

水や、

土や、

言葉や、

音楽や、

 

その他無限に連なる、この地球上の、そのままでも「生きている」ものたちを

 

だけど人はきっと、自らの手で更なる命へと「生かす」ことができる。

 

 

だからそのままでもすでに美しい花々を、

水盤の上に新たな命として再び「生かす」華道のことを、

古くから人は「生け花」と呼んだのだと。

 

子どもの頃、生け花を初めた時に習ったはずのそのことが、

どんなに真理をついた言葉だったかと、

今更ながら思い返されます。

 

 

これまで出会った、そしてこれから出会う、様々なものたちを

願わくば一つずつ手に取って。

 

一つの井戸を掘るように、生かしていけますように。

 

 

 

    末富晶

 

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春を待つ間に

晴空便り

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<生け花(アオモジ・チューリップ・レモンリーフ)

・末富晶 2017年1月>

 

 

私の住む地域では、この冬は雪があまり降らなかったものだから、

先週2日間ほどの寒波の折の積雪にみんな少なからず気持ちが高ぶったようで、私の見ているSNSのフィールドは友人知人の載せる雪景色で一時的に真っ白になりました。

 

思わず「私も…!」という気持ちになりそうだったけれど、

風邪をひいていたのでおとなしく窓越しに見るにとどめ…。

 

 

きっと、雪がもっと身近な地域の方々は、こんな風にたくさんの人が一気に雪景色の写真を載せる場面に立ち会うことはないだろうし

同じ日の同じ時間にSNSを眺めていても、その内容は全然違うものなのだろうなぁと想像したりしていました。

 

私たちは色んな意味で、同じような感じの人々と集まる傾向にあると思うので。

 

たとえ住んでいる地域にばらつきがあったとしても、

SNSで流れてくる情報には自然と偏りがあり、多少濃淡の差こそあれ、おおかた自分好みのものになっていることでしょう。

 

たぶん、ネットの画面から顔を上げて見える「現実」も基本的には同じようなことで。

 

自分好みの「偏り」を、各々に「普通」だと思って生きている。

 

もし他の人の「現実」を覗くことができたなら、想像以上の「違い」に驚愕するかもしれませんね。

あー、よかった…のかもしれません。そんなことできなくて。

 

 

写真の生け花は、一昨日、華道壮風会の教室にて(私にとっての)今年初稽古で生けたものです。

 

めずらしく、たっぷりと植物たちに入ってもらいました。

 

これまでしばらくの間、華材の数の少ないシンプルな作品が続いていたのですが、

こうしてたくさん生けてみると、これはこれで、楽しくなってくる。

チューリップを眺めていると、もうすぐ春だなぁと心躍る。

 

 

今年はまた更に進んで新しい場所ででも、晴空便りの生け花の時間、つくっていきたいと思っています。

 

詳細は近いうちにまた。

 

春を待つ間に、十分あたたかくして、次にすることを準備しておきます。

 

 

 

   末富晶

 

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新しい年にむけて

晴空便り

 

 

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あけましておめでとうございます。

 

数年前には辺り一面雪化粧なお正月もあったと思うのですが、今年はなんだかとても暖かくよく晴れた元日となりました。

 

三が日の間に見た動画で、印象に残ったものがあります。

 

英語のドキュメンタリーだったので隣で説明してもらいながらの視聴だったのですが、

アラスカの先住民族の過去と今を描いたその30分ほどの映像は、すべての言葉を理解できなくても深く心に響くものがありました。

 

その映像を見ながらのある瞬間、強烈に感じたのは、人は文化がなければ生きていけない存在なのだということ。

 

文化という言葉が適切なのかは分からないのですが、あるいは「つながり」と言ってもいいのかもしれない。

 

家族や、他の生き物や、自分の生きている大地とのつながりを大切にし、過去から脈々と続く大きな流れの中に生きていた彼らは、ある日唐突にその流れを打ち切られ、自分たちの文化の外の世界に暮らさなくてはいけなくなった。

 

狩りも、儀式も、言葉もなくし、

生き抜くために外の世界の一員になったけれど。

 

「つながり」をなくしたまま生きることが難しく、多くの自殺者が出ているという衝撃的な内容でした。

 

新年早々にこんなことを書くのは適切ではないかもしれないけれど。

 

最初はどこか遠くの国の話に感じていたその映像が、私には内容を知るほどに自分の国の姿に重なって見えたのです。

 

日本はよく言われるように、自殺者がとても多い国で。

 

私はそれをずっと、その多くは人間が「忙しすぎる」から、つまり「すること」が多すぎるために起こっている出来事なのだろうと思っていました。

 

だけどそれは、違うのかもしれない。

 

人が自ら命を絶つほど絶望する時というのは、すべての「つながり」が切れた(と感じる)状態の時で。

 

それはもしかすると、何も「すること」がない、と思える時のことなのかもしれない。

 

 

「すること」は多いのに、本当の意味での「すること」

つまり自分の人生において価値がある「すること」は一つもないと。

 

そう感じることで起こる出来事であるのかもしれないと思えたのです。

 

 

文化はおそらく、私たちの暮らすこの国の中でも、そういう意味でたくさんの「忘れ物」の宝庫で。

 

どこかの時点で失われた、誰かにとっての価値ある、人生をかけた「すること」がその土地土地に用意されていて。

だけども今は、その在り処が知れないほど地中深くに埋もれてしまっているものも多くある。

 

生け花でも、着物でも。

 

私がそうしたものに心の深くを揺すぶられるのは、おそらくこうして現代につなげられてきたこの土地の文化の中に、自分の「すること」を見つけられる感覚があるからなのだろうと思うのです。

 

そしてそれはきっと、他のたくさんの人にとってそうである可能性も高く。

 

だからこそ、やはり、そのために動いていきたい。

 

春に種を蒔くように。

芽吹く可能性のある土地に、祈るように水をやりたい。

 

いまだ地中に埋もれたままのそれらも一つずつ掘り返し、汚れを洗い、元の姿と使い方を思い出しながら。

 

これから先、

そうしたことがとても大事になってくるのではないか。

 

そう感じて動いている人たちが、私のまわりにもたくさん現れている。

そんな時代になってきたように感じています。

 

 

2017年、

晴空便りはたぶん、ここからが本番。という気がします。

 

本年も、どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

   末富晶

 

 

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”過程”を生きる

晴空便り

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子どもの頃から十代にかけて。

私は「すべてを知り尽くした老人」に憧れ、そうなろうとしていました。

 

着飾らず、美食せず、畑を耕し、古い着物を作務衣にしたものを着て。

 

犬か猫を一匹そばに置き、日がな一日、本を読んだり植物の世話をしたり、ゆったりとした時を過ごす。

 

本当の贅沢が満ちた、本物の暮らし。

 

 

自分の中に作り上げたそんなイメージが確かにあり、そうなろうとしていたものだから。

 

髪も顔も洗いっぱなし。

 

畳の上に座ればその姿から「座敷わらし」と呼ばれ、

ごはんを食べればその慎ましい量から「小鳥」と呼ばれ、

毎日下駄を履いていたおかげで足の指は自由に伸びて長く、

それは今でも気に入っているけれど、

つま先のとがったハイヒールなどとても履けない形となりました。

 

「本物」を知っている人は皆そんな姿になるようなイメージがあったから。

 

最初から、最短で、そこに行きたかったから。

 

人生の後半を待つことなく、かなり初期の段階でそういった姿を模していたのだと思います。

 

けれど、模したものが本物になるには、

おたまじゃくしがそのままカエルになるようにはいかない。

 

 

人の形を模した人形が、どうにか人間になろうと思っても、

 きっと何百年経っても、その夢は夢のままであるのと同じように。

 

心と魂の不思議を解明して、それをどうにか自分のものにするまでは。

 

ずっとずっと、長い旅の先に行き着く場所を見つけるまでは。

 

 

大人になってやっと、私はそういうことなのだと思った。

 

髪を編み、化粧を覚え、携帯も持って。

 

そうしたことの一つ一つが、馬鹿にできたものではないと知って。

 

みんなが通る、泣いたり笑ったりの心乱される世界を、楽しめるようになった。

 

 

ボロを着るには、まだ早いのだ。

 

 

その前に、やること、味わうことが、たくさんたくさん、この世界には満ちている。

 

 

そして世界は、おそらく ”結果” ではなくその "過程” がつくる。

  

問いかけのぶんだけ、こたえてくれるもの。

 

けれど自分を「完成されたもの」として扱ってしまえばそこで、世界への問いかけは途切れてしまう。

こんなに不幸なことは、他にないくらいなのに、幼い私はそのことを知らなかった。

 

 

あらゆるものを避けて賢人ぶるのは、

あらゆるものに飛び込んで愚民となるよりも愚かなことなのだと。

 

 

 そう知れて、良かったと思っているのです。

 

 

今年もあと数日。

時々過去を振り返りながら…そんな風に、まいりましょう。

 

 

 

   末富晶

 

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